誰にでも訪れる平等な偶然、もしくは幸運

08 31, 2018
何かをしていて、唐突に「美」とすれ違うと、一時的に気分がリセットされる。かなり疲れていても「美」の効果は機能する。あの「はっ」とする瞬間を体験する時、美しさの凄さを知る。「美」は、それまでの流れを見事に切断する力を持っている。ただ残念なことに、あまり長続きもしない。暫くすると「美」の効果は薄れてしまう。日常の分厚い流れが再び周囲を包み込んでしまう。結局「美」は、束の間の涼しい微風のような定まらない存在なのだろう。だからこそ、それを永続させるべく、様々な手法が試みられるわけだが、おそらくそれはどれも気休めでしかない。写真に収めたとしても同じことだ。「本物」は所有も記録もできない。逆に所有や記録されることで、その力は徐々に失われていく。であれば「美」は、誰にでも訪れる平等な偶然、もしくは幸運ぐらいに捉えた方がいいのかもしれない。
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原野に散らばる玉石混淆の山々

08 22, 2018

アイデアの枯渇を心配する必要はない。答えに繋がるきっかけは、必ずテーマそのものに隠れている。おそらくその考え方は正しい。実際ヒントは対象そのものを見直さない限り掴めない。「きっとこうだろう」と想定する何かは。大抵「いや、そうではなかった」となる可能性が高い。違いは凝視で見えてくる。その差異に気づけば、次の行動指針が決まる。そう考えると、まだ見えていない何かが山積みであることを思う。その山から有用な何かを見つけるためには、日々現場に立ち続けねばならない。誰かの作品を見るとか、誰かの話しを聞くとか、既に発見され整理整頓された対象を確認するのではなく、自分自身で原野に散らばる玉石混淆の山々から、自分だけに開示される世界の表情を探し出す行為を続けねばならない。それが現場に立つということだ。しかし、それが難しい。
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そんな人間に何が撮れるのか

08 15, 2018
壮大で凄い何かを普通に撮影することと、普通の何かを凄い視点で撮影することとの違いを思う。被写体が自ら強烈なパワーを放っている場合、おそらく撮影側ができる工夫はあまりない。成り行き上そうなるだろうが、素直にその魅力を記録することに専念した方がいい。そこに撮影側の個性は求められない。要は的確な技術があるかどうかだ。逆に、撮影側が己の意思を出したいとか、被写体の未発見な魅力を抽出するとかに専念したい場合、非日常で特異な被写体ではやりにくい。日常的に見慣れた対象の方が、その能力を発揮しやすく、結果としての差異も出やすいように思う。僕の生活スタイルでは、誰もが驚く緊迫感溢れる場面にはほとんど出くわさないし、住んでいる場所も東京の住宅街という徹底的に普通が目指されたエリアだ。仕事も守秘義務が大前提なので、何も公表することができない。そんな人間に何が撮れるのか、いつも自問することになる。
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没頭して凝視した後に漠然と眺める

08 08, 2018
継続は力になるのだろうか。後輩に教えてもらった、ヘーゲルの弁証法「量質転化」は「量の漸次的な動きが質の変化をもたらす」ということで、よくある解釈としては「考えてばかりで行動に移さなければ意味がない」的な説が多いらしい。しかし、薬が大量に摂取されることで毒にも変化するように、良かれと思う行為の積み重ねが、想定とは全く違う結果に繋がることもある。継続すればいいというわけではないのだ。しかし、継続していくしか道がない状況も多々ある。言ってしまえば、日常行為の多くがそんな境遇だろう。こういう時、逆にやめることの方が難しい。やめることができない状態への慰めとして、最初の言葉があるのかもしれない。であれば、逆に一気に投げ出すとか、思いを込めて放棄するという手法が、想定外の解決に繋がるかもしれない。しかし、それは相当リスキーな行為であり、そう簡単にできるものではない。視点を意識的にずらすことが必要なのだろう。没頭して凝視した後に漠然と眺める、そんな緩急を操れればと思うが、それが難しい。己が撮影した写真ですら類似カットの連発なのだから。
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任田進一

Author:任田進一
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