始めることで見えてくる光景

07 26, 2018
こちらのテンションをいくら上げたところで状況は変化しない。「今日は写真を撮る」と意気込んでも理想的な被写体と出会える保証はどこにもない。ただ、ある程度経験を積んでくると「それなりの写真」を撮ることはできる。そして、そんな行為でも続けていると、それなりではない被写体がどこからともなく現れることもあり「今日の1枚」みたいなものが撮影できたりもする。しかし、それらを家で見直していると意外に始めの方で撮っていた「それなりの写真」の方が、何かのさりげなさがある分「今日の1枚」よりも魅力があったりもする。結局自分の意志なんてものは、状況に左右される脆いものでしかない。ただ行為自体は、何をさしおいても必要であることは間違いない。行為を起こした後で生じる「感覚的なその時々のノリ」みたいなものの方が、当初の意気込み以上に信用できる気がする。何かを始めるということは、その目的に到達するまでの間に、様々な偶然的無意識を起動させることであり、そういう曖昧な感覚の存在を知っておくと、現場でのアドリブに対する壁が低くなるように思う。結局、始めないことには何も始まらないし、始めることで見えてくる光景に対し、どう接していくかをその時々で考えるしかないのだ。気軽に一歩を踏み出す方が、綿密な計画を立てるより重要だったりすることもある。
sw2-157.jpg
sw2-159.jpg
0 CommentsPosted in 制作

なんら大きなものと変わらない

07 20, 2018
マクロレンズを使っている影響で、小さい対象に目を奪われる。花びら1枚が5ミリに満たない花にも、当然ながら花としての全要素が詰まっている。小さい花は純度が高い。大きい花は、その分様々な付着物から逃れられないが、小さい花はそうではない。重力の影響も少ないから、花びらが垂れることもないし傷もつきにくい。存在の摂理なのだろう。広がりながら綻びるのか、小さくまとまりつつ破綻を回避するのか、それぞれの在り方を思う。ただ最近感じるのは、大仰な花は主張が強過ぎることだ。何もかもが過剰に見える。そしておそらくこの感覚は、年齢の影響もあるのだろう、大胆に目立つことが最近それほど魅力的とは思えなくなった。以前はそう考えてはいなかった。ただ、小さいながらも確かな強度や完成度が、なんら大きなものと変わらない被写体を見ていると、そこかしこに確かな存在が潜んでいる事実を覚えておこうとは思う。sw2-167.jpg
sw2-158.jpg
0 CommentsPosted in 制作

自身の記憶を心地よく刺激される何か

07 16, 2018
「新しさ」は「懐かしさ」に勝てないらしい。誰の言葉かは忘れたが、実際そうなのだろう。ベストセラー小説の映画化やドラマ化は常套手段だし、スターウォーズのスピンオフはこの先どれだけ作られるのだろうか。完全な新規性に対して、抵抗なく興味を持てる人は少ないし、そこに自然と警戒心が生まれるのは当然のことだ。それよりも、自身の記憶を心地よく刺激される何かであったり、大筋のアウトラインを理解している何かのアレンジの方が、素直に親和性が高まる。人の感覚を刺激する手法として「明らかにそれが何かを理解できているのに、明らかに何かが理解できていないことを、それとなく自覚させる」というスタンスがあるように思う。植物を撮影する時、どことなく意識していることを強引に言語化すると、そういうことになる。花なんて、もう充分見たはずなのだが、意外にそうではない。見てはいても、見えているとは限らないのだ。それを被写体から、僕は毎回教えられている気がして仕方がない。
sw2-169.jpg
sw2-152.jpg
0 CommentsPosted in 制作

急に見えなくなる

07 10, 2018
被写体が小さいので、ほんの少しの風でブレる。下唇を噛み締めながら息を止めて、ぎりぎりピントを調節する際、それなりの体力と気力を消耗するようで、マクロレンズでの撮影は1時間程度が限度だ。疲れてくるとピントが全く合わない。それ以上に合う瞬間が見えなくなってしまう。あまりいいレンズではないのでオートフォーカスも信用ならない。結局ある一定の時間が過ぎると、撮影していても仕方ない状態になってしまう。スタートはいい、撮影を始めて15分程経つと、周囲が更に見えるようになる。普段の視覚が対象を探る視点にシフトし始める。いつもは気にならない、微細な対象に接するための意識が立ち上がる。しばらく没頭できる。しかし、これが続かないのだ。いつの間にかピントが合わなくなる。「ああ、もう見えなくなった」と思う。ただこれは、もしかすると体力的な問題ではないのかもしれない。一定量を特別な視覚で見ていると、もうそれ以上は見なくていいと、本能が判断するのかもしれない。食欲がある程度で満たされるように、この視覚にも時間制限があるのかもしれない。それくらい急に見えなくなる。
sw2-144.jpg
sw2-175.jpg
0 CommentsPosted in 制作

むしろ正確な距離

07 01, 2018
水は先天的に動きとしての要素を孕んでいるのか、小さな水滴が写真の中にあるだけで、そのシーンがその時だけであったことを妙に強調してくる。水滴の中に一番明るい部分と一番暗い部分が凝縮され、見えないとしても、原理的には周囲の光景が映り込んでいることを考えると、水は環境をとりまく空気の結晶のように思えてくる。マクロレンズを通したファインダー越しに、見えなかった水滴を見つけると、ささやかな瞬間と接した気分になり、まあシャッターを切ってしまう。ピントも合わせやすかったりするのだ。「大切なのは絶対的瞬間ではなく、むしろ正確な距離である」という、ジャック・ランシエールの言葉があるが、正確な距離はとても難しい。逆説的になってしまうが、正確な距離を掴めたときこそが、ある種の絶対的瞬間なのではないかとすら思う。たとえ対峙していたとしても、お互いの距離が見えないのであれば、それはまだ単に向き合っているだけでしかない。そんな時に水滴があると、被写体との正確な距離がどこにあるのか、探りやすくなるように思う。
sw2-174.jpg
sw2-195.jpg
0 CommentsPosted in 制作
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ