そのあまりの変わらなさ

01 25, 2016
ここ20年同窓会というものに出席したことがない、まあ欠席もしてない。つまり案内が来ないという時点で、何かから外されているのかもしれない。だからか旧友との再会というのがほとんどない。先日恩師が亡くなり、そのお通夜で懐かしい面々と会った。15年ぶりくらいだっただろうか、当時はいつも顔をつき合わせていたのに就職を経て結婚云々と続き、いつの間にか疎遠になってしまった。どんな風貌になったのか心配したわけではないが、そのあまりの変わらなさに驚くのだった。当時の思想のまま、今日まで生きて来たということか。外観の経年変化が全くわからない程にそのまんまというのに加え、話の内容も話し方も変わっておらず、その変わらなさがなんだか嬉しかった。やたら「変われ変われ」と連呼される世の中において、変わらないという魅力や価値がそこにあるように感じた。自分の15年が旧友それぞれにもあったことを思うと、その間の困難や逆風と無縁なわけがない。よくぞ変わらずいてくれたという気持ちでいっぱいだった。引き合わせてくれた先生に感謝しつつ酔うのは、お通夜という場もあり残念ではあるが、正直に言うと心地よかった。また15年後に会ったとしたらさすがに「変わったね」となろうが、僕が生きているこの時間、旧友もそれぞれに生きているというあたり前のことが、とても大切に思えた。
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marathon and banana

01 18, 2016
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現代美術のルールをプログラミングされた人工知能

01 12, 2016
村上隆の展示を観た。作品が商品のようであった。もちろん作品は商品として売買の対象にならねば存在価値がない、と考える方々にとってはなんの問題もなかろう。何故ゆえそのように見えてしまうのだろうか。そのあまりに迷いのない、古典を元ネタにしたテーマ設定や徹底的な手数と高度な完成度が、温かさのような人間味を消すのだろうか。正直、現代美術のルールをプログラミングされた人工知能が、手数勝負の潮流を踏まえて制作したサンプルを見ている感じだった。作品のテンションがどれも同じなのだ。完璧に管理された制作行程を経て完成に至る工業製品、という見え方を村上隆は求めているのだろうか。そういえばオタクは生身の人間関係を拒み、イメージ世界との戯れを選んだ方々だ。それをどうこう言うつもりはないが、彼らは人間的な生々しさを嫌悪し、プラスチックもしくは金属メッキのようなドライな表情を好むのかもしれない。(スーパーフラットとはそういうことだったか?)細部の細部にまで行き届いた配慮と大胆な動きが混在する画面には、暑苦しい程の原色が目眩を起こすほど飛び交っているのに、その空気はどこまでも冷たいのだった。相当な自己主張と同時に「俺に触るな」という拒絶も感じた。ただ、展示の最後にあった年表の執拗な記述には温度があった。こうしてこうやって頑張って「俺はここまで来たんだ」という人間の切実さがそこにはあった。僕が一番長い時間見ていたのは、その年表だったかもしれない。
「村上隆の五百羅漢図展」森美術館、3月6日まで。
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イースト菌と天然酵母の違い

01 08, 2016
管理し易い人達というのは、行動もしくは思考にばらつきがない集団ということになる。確かに、勝手かつ予測不可能な動きをする人達を管理するのは、難儀としかいいようがないが、その集団の仕事が個人の意志と乖離した機械的行為に終始するのであれば仕方ないが、問題解決に際し何らかの創造性を求められる場合、行動もしくは思考にばらつきがある集団の方が、思わぬ結果を出しそうで魅力的ではなかろうか。(そういう博打を管理者は嫌うのだろうが)

パンを膨らませる時に必要とされるイースト菌と天然酵母の違いは、前者が「膨らます」という機能のみに特化された菌であるのに対し、後者は菌の個性がバラバラなので、膨らます機能を持ちつつも別の要素を含んでいる。例えば酸性に強い弱いとか、たんぱく質が好き嫌いのような感じだ。つまりイースト菌は、人間で言うと管理し易い者だけを選抜し複製し、言うことを聞かない人間や怠け者を次々に排除した集団ということになる。ただそこにも問題があり、培養時に薬品を使用したり放射線をあてたりという反自然的な過程を経て作られる場合もあるということ。強制的な研修で洗脳された集団と呼んだらまずいだろうか。 とは言っても、現実問題イースト菌を使ったパンは大量に出回っているし、それによって家庭でも容易にパン作りが楽しめるし利点が多々あるのが実状だ。ただ本当に「良いパン」を作ろうとする場合は天然酵母の登場になるし、それをうたい文句とした商品もある。天然酵母で作られたパンというのは(管理しにくい個性派集団の都合に合わせて作られたと言い換えてもいい)酵母内の様々な菌が複雑に絡み、味に奥行きがあり美味しいらしい。問題はコストと管理というわけだ。

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 渡辺格(講談社)
本書は、こういった菌なり素材の在り方を最優先し、効率や管理のし易さ度外視でパン作りに生活を賭けた職人の話しである。全ての材料から人間の都合を外し、素材の都合を優先することで、自然の摂理に合わせたパンを著者は追求する。そして「金」を「菌」に置き換え、新しい仕事の在り方を田舎で実践してきた。その生活はとても魅力的に映る。週休3日で冬はひと月休むそうだ。お店の場所は非常に便が悪いらしいが、全国からお客が訪ねてくるらしい。そこで、手塩にかけた自信作を正当な価格で売り、喜ぶ生活者の顔を確認することで次のパンを作るモチベーションにする。大量に出回ることはないが、家族が生きる分には充分な収入がそこにはあり、地元素材を使用することで、周囲の事業も活性化しているとのこと。効率重視によって排除されてきた様々な要素が復活し、魅力を放っているだろう空気がそこには感じられる。作者は「腐らないこと」の異常さを最大限活用したものがお金であって、今その「腐らないお金」によって多くの歪みが生じていることを指摘する。時の人なのか昨日の朝日新聞に談話が載っていた。以下はその結びのあたり。自分が満たされて働くこと、暮らしている地域が豊かになること。ふたつが重なり合うところに幸せがある。それを可能にするのは循環であって、利潤の確保ではない。「金本位制」→「菌本位制」「金融系」→「菌遊系」腐らない金を腐る菌に置き換えることで、著者は生きる方向を確保したようだ。

自分の話になるが、どうも働く現場において上層部からの妙な締め付けが多い。仕事と無関係なことでも管理し、従えたいという思いがビシビシ伝わってくる。それは別にどうでもいいのだが、怖いのは管理される側の弱い人が、与えられる意志に積極的に同調することで自分のアイデンティティーを確立し、強い人間になったと勘違いする場合だろう。本日の朝日新聞に中村文則の文章があった。以下抜粋と要約。
格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人々がなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合がある。これは世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に「弱い立場」の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく「強い政府」と自己同一化 を図ることで自己の自信を回復しようとする心理が働く流れを指摘している。経済的に大丈夫でも「自信を持ち、強くなりたい」時、人は自己を肯定するため誰かを差別し、さらに「強い政府」を求めやすい。当然現在の右傾化の 流れはそれだけでないが、多くの理由の一つにこれもあるということだ。今の日本の状態は、あまりにも歴史学的な典型の一つにある。いつの間にか息苦しい国 になっていた。
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任田進一

Author:任田進一
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