心のざわざわ

08 28, 2015
人はどこまでも堕落できる、という姿を晒し続けた娘の夏休みがようやく終わった。当初輝いていた計画表は黙殺され、好き放題の生活を続けたツケがいきなりやってきたようで、今日はテストらしい。ヤケにならないことを祈る。そんな娘の絵日記より抜粋。

「親からはなれてねるので、かなしくなったりするのかと思ったら、心のざわざわがきえて、すっきりとしたふしぎな気分だった。」

これは娘が独りで参加した2泊3日のサマースクール初日の感想なのだが、なかなか興味深い。「心のざわざわ」とは、親からの圧力だったり小言の類いなのだろうか。それほどに親はガミガミ言っていたわけか、もちろんそんなことは分かっている。問題は、色んな至らぬ点の指摘=ガミガミが、娘の中で「心のざわざわ」として一括りになっていたことだ。希望としては「解決すべき自分の問題点」として残って欲しかった。しかし、人から言われ続けた言葉は、キレイに整頓されて残るわけがなく、わらわらと蓄積されごった煮になり適当なレッテルを貼られてしまう。そのタイトルが「心のざわざわ」なのだとしたら、あんまりガミガミ言うのはよろしくないのだろう。ただ思うに、親の不在を体験したことで、そのざわざわが意識されたのだ。今回は「ざわざわなし状態」=「すっきりとしたふしぎな気分」となったが、それは多分にサマースクールの兄さん姉さんに大切に扱われ、楽しく過ごせたゆえだろう。それが何かの問題なりに独りで直面したとしたら、その「ざわざわなし状態」=「警戒すべき不安な気分」かもしれない。まあいい、要はその言葉を読んで僕の心がざわざわしてしまったということ。
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ひとつのこと

08 20, 2015
舟越保武は作品を制作するにあたり「前作よりも今回はより良くなっているか」というある種の職人的判断を重視したらしく、自分のことを「私は芸術家でなくてよかった」という言葉で表している。舟越保武を知らずに「芸術家」を名乗っている人は極端に少ないと思うので、この「私は芸術家より職人」という思いには恐れ入るが、確かにその生涯に残した作品群は、あまりに一本道ではある。つまり、今の芸術家は他方向にその能力を発揮せねばなず、著名なアーティストを含めその多くは、アウトプットを限定しない姿勢を通して、自身の鮮度やマルチな才能をアピールする。その辺りを、第一人者でもあった舟越が気にしていたとは到底思えないが、一筋に人物を作り続けてきたその思いは、確かに芸術家的というより職人的だったのかもしれない。もちろん、どちらがどうという優劣はつけられないが、ひとつのことを徹底的に極めるという姿勢はかなり共感できる。続ければ続ける程にその深淵に入り込む感覚は、作り手だけが味わえる尊い世界で、それは見るだけの者には絶対に知り得ない。その制作過程上で生じる自分の手の動きの進化とか、見方の変化の機微といった、作り手がわざわざ言語化しない制作行為の変化は、ひとつのことを継続し続けることでしか実感できないように思える。そして、その「ひとつのこと」を執拗に繰り返し、技術その他の感覚を進化させていく人が「職人」だったりするのだろう。名作「聖セシリア」を見ると、その気品にしびれるばかりだが、脳梗塞後の左手だけで制作された「ゴルゴダ」になると、今まで作られてきた端正な顔立ちに秘められた、その内側を垣間見るようで、そこには最近取り沙汰される盗用問題からかけ離れた、作り手の真摯で切実な姿勢が見て取れる。大量に出回るような目立つ仕事も多々ある中、こういうつつましく静かに凄みを持った、丁寧な仕事も存在しているのだ。

舟越保武彫刻展「まなざしの向こうに」練馬区立美術館 9月6日まで。
そして兵庫県立美術館では、息子舟越桂の展示「私の中のスフィンクス」が開催中で、今月30日まで。観に行きたいが厳しい。同じ空間で、この親子の展示企画があれば素晴しいのだが。
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画像左:http://hi-to-ha.cocolog-nifty.com/hitoha/2013/05/post-68d6.html
画像右:http://ameblo.jp/withwitch2/entry-12004622815.html
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a mail carrier

08 14, 2015
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a warm sensor

08 12, 2015
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流れ込んだり流れ去ったり

08 04, 2015
通常、写真作品の展示を観た後は、そこに新たな視点やコンセプト、もしくは社会的事実や人間では不可視なミクロやマクロな世界を垣間見るといった、多種多様な何らかの経験が自分に残るものだが、この展示を観終わった後に、一体何が自分に残ったのかどうもよく解らない。前回の東京都写真美術館での展示「熊野、雪、桜」では、白い空間を通しての「桜や雪」黒い空間を通しての「炎」が、かなり具体的に脳裏に残ったのだが、今回の作品群は、さらなる抽象性が加わり、観ている写真の先にある対象が脳内で上手く実を結ばない、もしくは結ばれるのを拒んでいるかのように思えた。

「鈴木理策写真展:意識の流れ」東京オペラシティーアートギャラリー
「意識の流れ」というタイトルは「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」という作者自身の経験に基づいて付けられたようだ。つまり、写されている光景にはその外観以外に、多大な撮影者の記憶や意識が盛り込まれている、ということだろうか。しかしカメラは機械的な道具で、心象的な無形物は物理的に写らない。「アレ、ブレ、ボケ」でそれを表現するのは随分昔の話だろうし、作者のカメラは8×10で機動性がすこぶる悪く、その手の撮影には適さない。
思うに、そこで登場したのが「水」だったのだろう。川の流れや海の波等水の動きをぼんやり眺めていると、自然と無心になれたりする。そして、水の動きそのものと自分の意識が溶け合う感覚は確かにある。撮影された流れ落ちる滝や、池に写る森林の光景などは、その流動性ゆえに像がどこまでも歪む。もしくは輪郭を曖昧にくらまして消える。水の別形である雪の場合は、その光の反射によって、色自体が極端な白に変換され見ているのに実体が見えない。そういう見るべき対象が様々な揺らぎの中に組み込まれた上で、鈴木理策特有の徹底的な「ボケ」が加わり、作品が成立しているように感じた。被写界深度を極端に浅くして、画面のほとんどがぼかされた雪の写真群のいくつかは、もうただの「白い平面」もしくは「印画紙そのもの」でしかない。それがどうなのかは、観る側の判断なのだろうけれど、少なくとも観る側の固定化された意識が流されていく感覚は味わえる。見ているのに見えてこない、もしくは見えているのに何が見えているのか判断しかねるような経験は、写真を通して感じる類いではない。8×10の良さは、その圧倒的な描写力にあるが、その描写の次元がずらされている作品群に翻弄される。
「ひとつのうねりのような感情」とは何なのだろう。もちろんそれは言葉にならない何かであって、その何かが海や森に漂う水を通してこちらの意識に流れ込んだり流れ去ったりしているのだ。そして自分の意識がどこにどのように在るのか、見える人は見えるのかもしれない。
展示は撮影可能で、9月23日まで。
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画像:http://prestige.smt.docomo.ne.jp/article/5572
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画像:http://heartysbox.exblog.jp/24704205/
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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