ひっくり返し、裏返し

07 27, 2015
当然だが人生は楽しいことばかりではない。どちらかといえばその逆で、物事は大抵思うように進まない。しかし、それをどう肯定的に捉え前向きに生ききれるかが、周知のテーマだったりする。つまり、日々喜び続けるには相当な努力や忍耐が必要だ。でも喜びだけで生きるのは可能なのか。

「インサイド・ヘッド」監督ピート・ドクター(2015年アメリカ)
脳内ポイズンベリーと設定が同じでは?という指摘や、オープニングのドリカムは一体何なのか、という炎上寸前のつっこみの嵐を物ともしない評判の良さが気になり、観に行ってきた。
脳内に設定された5つの感情を司るキャラのひとり「ヨロコビ」が、どこまで過酷な状況に耐えられるかが物語の焦点のひとつだが、新鮮だったのはその脳内に蓄積されていく、もしくは消えていく記憶の表現手法だった。人にはそれぞれ一生を通して消えない大切な思い出があれば、無意識に消滅する記憶もある。よくも悪くも、人間はどんどん忘れる生物なのだ。受験勉強で覚えたことをいつまでも覚えている人は稀だろうし、引越しすれば元の住所や電話番号はすぐさま曖昧になる。パスワードを忘れて悶絶したことがない人はいなかろう。そしてそれは大切な人間関係の記憶だってままならない。この映画の見せ所はそういう「大切な記憶の消滅」 にある。親であれば自分が与えた愛情イベントは、いつまでも子供に記憶していて欲しいが、残念ながらそうはいかない。些細なことがきっかけで、記憶自体が消去されたり塗り替えられることもある。そんなかけがえのない珠玉の記憶が、目の前で崩壊するシーンの悲しさたるや相当なものだ。しかし残念だが、人間の記憶には限界がある、全ての経験を克明に覚えてはいられない。成長と共に何かを覚えれば、どこかで何かがひっそりと消えていく。

主人公はまだ少女ゆえに「ヨロコビ」が一番幅を効かせていたが、お父さんの脳内では「イカリ」がメインキャラで、お母さんではそれが「カナシミ」だったように見えた。大人はそれほど「ヨロコビ」ばかりでは生きて行けないのだろう。ただそれは純粋な「イカリ」でも「カナシミ」でもなく、かなりアレンジされた個性をもつ「イカリ」であり「カナシミ」なのだ。感情も成長する。特に「カナシミ」のマイナス思考には苦労を伴うが、その繊細で確かな視点などは、 明らかに「ヨロコビ」には無いもので、非常に大切な「理性」にそれは繋がる。子供の脳内では、その5つの感情キャラがまだバラバラなのだが、大人になるとそれは「ひとつのチーム」になっている。そういう描写が、さすがピクサー!なのだろう。
タイトルも重要だ。邦題の「インサイド・ヘッド」はただ「頭の中」以外の意味はなさそうだが、正式なタイトルである「Inside Out」は熟語の「ひっくり返し、裏返し」の意味になる。そこには明らかに、物事の両義性が意図されている。見えている部分の裏側を想像すること、そこに「カナシミ」の存在意義があるように思えた。
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画像:https://www.youtube.com/watch?v=DgkaF3yyeNM
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yukata

07 26, 2015
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the shedding of the skin

07 22, 2015
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こういう極小空間でも成長があると思うとうれしい。エビ脱皮(えびだっぴ)音感も楽しい。
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Schedule on a day

07 18, 2015
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小さな手応えの意外な重さ

07 01, 2015
少し前から娘が釣りをしたいと言っており、面倒なので道具がないとか適当な理由をつけてかわしていたのだが、ここ最近になって、突然僕もやってみたいと思い始めた。その心境の変化は何なのか。まあとにかくそういうモードになり、多摩川あたりで娘と並んで釣り糸をたれるシーンが脳内に出来上がり、それが妙に魅力的に思え、どうしても実現させたくなった。
幸い近所に上州屋があり、初めてその世界に足を踏み入れたのだが、初心者の僕にとって、どれもイメージとかけ離れた立派過ぎる道具ばかりなので、定員に子供でも使える小魚狙い用一式をそろえてもらった。実にシンプルな仕掛けと竿であったが、思っていたイメージと合致するものだったので言われるままに購入し、先週の土曜日とりあえず娘と多摩川に出かけた。

ささやかであっても、新しい事を始めるのは悪くない。娘もわずか2m程の竿を見て喜んでいたし、僕も不思議な期待感に包まれ、色々とネットで調べることからして楽しかった。最近は様々な規制があるらしい。遊漁料なんて知らなかったし、その認定証をコンビニで購入できることも知らなかった。場所に関しては、以前撮影で通い詰めた経緯があるので見当はついていたものの、釣り人ブログを参考にさせて頂き、いくつか場所を絞り込んでおいた。理想はあるが、そう簡単に釣れるほど甘くはなかろうと思っており、まずは娘と並んで竿を持って座ることが出来れば、初日は上出来ぐらいに考えていた。

やはり全然釣れなかった。早々に言い出しっぺの娘が別の遊びを始め、並んで座る事すら実現しない。そして2mではほんの足下程度の距離で糸を垂らすしかなく、魚がいるのかどうかもわからないので、場所を変えることにした。ということを何回か繰り返し、最後にチェックした場所に辿り着いた。
まず、常連的釣り人が何人かいることからして、期待感が高まる。今までは周囲に人がいなかった。釣れないはずだ。しばらくして娘が「釣れるかい?」と話しかけられたのに、もごもごしているので、ちゃんと返事をしなさい的な話をしているうちに、ある人が餌を分けてくれることになった。どうやら僕が用意した餌は駄目らしい。加えて釣る場所も「わかっていない」ようだ。素直にそのおじさんに言われるがまま、餌と場所を変えて再始動した。その1時間後ぐらいだろうか、浮きが沈むようになった。つまり餌が食われるようになった。合わせて竿を上げているのだが、見事に餌だけない。しかし魚は明らかにいるようだ。少し興奮しているのが自分でわかる。そしてついに、小さな重みを竿先に感じた。「あ」と思う。竿を上げるとぴちぴちと銀に輝く稚魚であった。とても小さいが予想以上に自分の喜びが大きく驚いた。直ちにリリースすべきなのだろうが、恥ずかしながら嬉しいので、バケツに水を入れそこで稚魚を泳がせた。娘は食い入るように見つめている。なんだか誇らしい。
0と1がまるで違うように、そこには大きな差がある。あの小さな手応えの意外な重さを娘にも味わってもらいたく、ひそかに祈っていたら、また釣れた。今度も稚魚だが少し大きい。餌と場所の大切さを思い知った。「お父さんはいいなあ、全然釣れないよ」という声が聞こえた時、娘の竿先にもあの小さな重さが訪れた。その表情の変化を写真に撮れなかったのが残念だが、ふてくされた顔が歓喜にメタモルフォーゼしていく様子は見物であった。

今その3匹の稚魚たちは「S」「M」「L」という名前で、玄関に置かれた水槽の中を泳いでいる。僕はフナかと思っていたが、口にひげらしきものがあるので、たぶんコイなのだろう。水槽を綺麗にするという小さなエビを2匹購入し(えび子&えび太)今のところ皆元気だ。
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任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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