穏やかでありつつ深いまなざし

06 25, 2015
下から吹き上がる空気にゆるく煽られ続ける薄い布とそれを取り巻く空間を見せる、大巻伸嗣の作品「リミナル・エアー スペース―タイム」を見る人の顔つきが、皆なんとなく似ていた。
その柔らかで優雅な布の動きは、何かに圧倒される緊張でもなく、未知の何かと出会う驚愕でもなく、もう既に知っているつもりだった何かの秘密を見たような表情とでもいうのだろうか、作品を観る者の目から、穏やかでありつつ深いまなざしを引き出している感じで、とても印象的だった。満たされた気持ちというのは、望んでいた何かが手入ることでもあるが、もともと在った豊かさを知ることでもある。今はあらゆるモノが飽和し、あらゆるところまで過剰な説明と理屈が貼付けられる。そんな中、余分な要素を削いで剥がして、最後に残った本質だけを抽出した作品の数々を観ていると、身体の毒素が抜ける。もちろん、圧倒と緊張と驚愕を同時に体験できる作品もある。その黒い巨大な幾何学形態、カールステン・ニコライの作品「アンチ」は、手をかざすと空間を揺さぶる重低音も含め、そこはかとない脅威があった。多様な「シンプル」に、それぞれの本質が複雑に絡み合う見応え充分な企画展だった。

「シンプルなかたち展:美はどこからくるのか」森美術館で、7月5日まで・会期中無休
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画像:http://www.asahi.com/and_w/fashion/CGfashion105551.htm
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暗闇でドローイング

06 21, 2015
前回マグリットについて「そこに迷いや混乱や狂気等は一切無く、ひたすらな真面目さに満ちていた」と書いた。それは筆を持った作家が画面に向かうシーンを、僕が勝手に想像したものなのだが、この人の場合は全く逆で、出来る限り「迷い混乱し、狂ったかのように、もしくは(言葉は悪いが)不真面目的に」描くにはどうしたらいいかを、懸命に模索し続けたのではなかろうか。

「サイ・トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡」(原美術館)
ロラン・バルトはその仕事を「ある意味では、絵画を視覚から解放した」とか「彼は光なしで描く」と評価した。それは絵画の新たな可能性を切り開いたことを意味しており、それまでは「幼稚」とか「無意味」等、散々な言われようだったのに、以降トゥオンブリーはどんどん巨匠になり、2001年にはベネチアビエンナーレに「レパントの海戦」を展示し、金獅子賞をもらっている。

以前ポンピドゥーセンターで、トゥオンブリーの展示を観た時は、老若男女プラス子連れ家族でごったがえしていた。もちろん、原美術館もそこそこ客が入っていたが、明らかに玄人的な方々が多かった。たぶん「見方」を知っている人達なのだろう。別にそこをどうこう言うつもりはないが、できれば子供世代がもっとこういう絵を観ればいいのにとは思う。実は娘を誘ってみたのだが断られた。マグリットは良いがトゥオンブリーは嫌だ、というのは解る気もするが、なんだか残念である。このはじけ方にどう反応するのか楽しみだった。

とにかくその作品を観ていると、自分に纏わり付いている理性が実にうっとおしくなる。人間ある程度生きていれば、皆何かに縛られ自由が効かなくなっているものだが、そういう固まったもろもろの何かを見事に粉砕する破壊力を、彼の絵は持っている。さすが、手を視覚から解き放つべく暗闇でドローイングしたというだけあり、絵というよりは、溺れてもがいた跡とでもいうのか、微妙な緊張と無駄な弛緩が共存していて、簡単な形容を許さない。その分、次の予想が出来ない上にうまく記憶も出来ない。だからだろうが、絵の鮮度が全く変わらない。いつ観ても初めて観たような印象を受ける。

写実的正確さや緻密さ、工芸的な美しさといったその作品の解りやすさが、最近何より幅を効かせているように感じるのだが、正直そういう凄さはすぐに把握出来る分、それ以上の秘密的要素が欠如しており、どうも好きになれない。誰が言ったのか忘れてしまったが「すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる」のだそうだ。それを「すぐに解るものは、すぐに消費されてしまう」と言い換えるたら間違いだろうか。

知人が「これからはフリーハンドの時代になる」と言っていた。確かに手書きの場面がどんどんなくなり、手の動きは不自由になる一方だろう。手で何か出来るということが、価値になるのかもしれない。ただし、正確さが求められる動きは、どんどん機械に変わってしまうだろう。でもトゥオンブリーの作品を観ていると、こういう動きは機械では絶対に出来ないだろうと思え、なんだか嬉しくなる。

「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」林道郎(ART TRACE)の後半部分で、近年の作品(レパントの海戦)を批判的に観る意見がある。具体的な船が出て来るのはいかがなものかとか、その連作性が作品の奇妙で多重的で多方向な時間制を整序してしまってひっかかる等、なんとも手厳しい。そういう視点を加えると今回の展示は紙媒体に限った効果もあり、その実験的要素が満載で観る価値の高い仕事ということになる。とは言え、やはり理屈抜きで大画面の連作も観たいものだ。そこには一度目から解放された手の動きが、もう一度目を喜ばすべく戻ってきたような印象を受ける。以下、2009年に開館したミュンヘンのブランドホルスト美術館に常設展示されたレパントの海戦。
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画像:http://kokouozumi.exblog.jp/16826438
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ひたすらな真面目さ

06 17, 2015
中学生の時、美術の教科書の裏表紙に載っていた「大家族」を見て、こういう絵があるのかと思った。日常的シーンを少しずらすだけで生じる違和感に引きつけられた。それぞれのパーツはいたって普通なのに、どうしてそこまで異空間になるのか疑問だった。それから時々本物を観る機会があったが、正直に言うと初めて見た教科書での「大家族」を越える印象はなかった。サイズ感もいわば普通だし筆跡もなく均一な画面で、本物が持つ迫力のようなものが他の作家とは違うように思えた。そのうち、描かれているもの自体が異常なダリとかに興味がシフトしてしまい、やはりパーツも異常であるべきとか思うようになるのだが、今回まとめて大量の作品を観ると、マグリットの良さがじわりと染みてくる快感があった。明らかに初期の作品は筆跡が残っていたり、そもそも絵があまり上手くなかったりするのだが、時を経るごとに筆跡がなくなり内容が整理され技術も向上し、数点見ただけではわからない円熟さが見て取れた。思うに1950年の「光の帝国2」以降静謐さが増し、1959年の「ガラスの鍵」になるとサイズも巨大で、そこに描かれる山肌の繊細な筆致は職人芸そのままであり、そこに迷いや混乱や狂気等は一切無く、ひたすらな真面目さに満ちていた。そして1963年、マグリットが65歳の時「大家族」が描かれる。下部に横たわる海が暗く重く波打っていて、その羽ばたく青空を際立たせていた。それぞれのパーツが最高で忠実な「普通」でもって表現されることで、マグリット的調和を生み出していた。調べてみると人格も生活も実直な方だったようだ。
(以下ウィキペディアより)

マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたといい、「平凡な小市民」を意識して演じていたふしもある。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという。

「マグリット展」国立新美術館、今月29日まで。先週の日曜に娘と行った。並ばず入れたが、美術館を出たら行列が出来ていた。小学生以下は無料で楽しめる。会場出口での関連グッズがやたら充実しており、思わず帽子付きの鉛筆を買ってしまった。
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swing

06 07, 2015
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消えない何か

06 04, 2015
娘の運動会で無防備に日焼けしてしまい、3日目にしてぼろぼろ皮が剥がれてきた。顔がまだら状態になっており随分みすぼらしい。太陽光線をあまくみたツケなのだろ う。しかし、こういう痕跡が運動会の生々しさの一端でもある。こういう体に残った残像は、都合のいい記憶とは異なる、正直なその時の状況 を今の自分に伝えてくれるが、その皮が全部剥がれて日焼け前の顔に戻ってしまうと、僕の中の運動会の何かが消えるのだろう。
似た様なもので筋肉痛がある。随分昔になるが調子にのって野球をしたところ、普段の運動不足がたたり、翌日歩けないような全身筋肉痛になった。それは一緒にやったメンバーも同じ状態であり、確認し合ったことは「試合前日に練習してはいけない、翌日体が動かなくなる」だった。しかしそんな筋肉痛であっても、しばらくすれば消える。
こういう徐々に体が以前の状態に戻っていく感覚が、自分の意識とは関係なく体が機能していることの現れなのだろう。そしてそれは時間の治癒力でもある。その時最重要とか思っていても一週間過ぎれば、見事に過去になる。一ヶ月過ぎれば完全な過去であって、その影響も消えかかる。
しかし、時々そういう時間の洗礼を経ても消えない記憶なり痕跡がある。いつまでたっても消えないそういう強い思いがどれだけ自分にあるだろうか、昔に比べて随分減った気がする。それは無難に物事をやり過ごす技術に長けたことで、しぶとい思いが弱まったということだろうか。それ以前に、そういう消えない何かがある方がいいのか、それともない方がいいのか、どちらが自由なのか。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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