GOAL

05 31, 2015
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今年で22回目

05 19, 2015
随分前から年に一度、国立にある「ひょうたん島」というカフェへ行く。昔は独りだったが、今は娘と行くようになった。そこでは5月中に知人(修子さん)のささやかな展覧会が開かれるのが恒例行事で、今年でなんと22回目になる。僕はその全てを観てはいないが、その半分以上は観てきたと思う。
作品として描かれているものは、修子さんがずっと飼っている猫なのだが、数年前にもう他界したと聞いた。しかし、相変わらず描かれているのは猫である。しかし今回は、少女や熊なども登場しており、タッチもどこかやわらかで、色も淡くなった。何かあったのかもしれない。
僕はどの展示を観に行く際にも、あまり作家に対し行きます宣言をして出かけないので、基本作家不在の場合が多い。今回も修子さんはいなかった。(去年たまたまお会いでき、それが5年ぶりくらいでお互いの変貌具合を笑えた)ただ思うのは、作品を通して今の修子さんを想像するのは楽しいし、そういう作品の見方は知り合いならではの贅沢なので、このスタンスは今後も変わらないと思う。
サイン帳にある、過去の自分のサインや別の友人達のコメントを眺めるのも楽しい。調度、娘が文字らしきものを描き始めた頃のページもあり、時節の変化を思う。今回娘は生意気にも感想を記していた。修子さんの展示がこれからも続けば、そしてそのサイン帳がまだ使われれば、その感想を読んで笑う時が、またいつかくるのかもしれない。
季節がいいのと、場所が自宅から12~3kmなので自転車で行くのだが、そのカフェまでの道すがら1年という単位を考えずにはいられない。先を行く娘の後ろ姿を眺めながら、去年もこんな感じだった、来年はどうなるのか、そのうちまた独りで行くようになるのかとか、それよりこのペースがいつまで続くのか等、年単位の視点で周囲を見るようになり、恒例行事の大切さを思う。修子さんの活動に感謝せねばならない。
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手を動かすこと

05 13, 2015
そこに意味があるのか、どんな価値があるのか、と考えたとたん手は止まる。いかにそれを思わずに没頭できるかが、続けられるか終わるかの境目だ。「一体自分は何をしているのか」という他者的な視点は、一見冷静さに繋がる判断のようにみえるが、実は怠惰な思いを正統化するささやきに近い。
最近、再び手が動かなくなった。その分頭を動かしているつもりなのかもしれないが、それがどれほどのものか。それ以上に手を動かし、妙な考えから手を解放すべく行動した方がよいのに、どうも別の何かに逃げているように思える。そしてその別の何かとは、仕事だったり料理だったり娘の写真整理だったりと、最もな顔立ちをした周囲に評価される間違いのない行為だったりするのだが、これが一番の逃げ口上なのだ。そういうことをするのは別に悪くないが、そういうことをするために制作から離れても仕方がないという発想が恐ろしい。健全さが自分を蝕むこともある。そうではなく、もがきあがくような負の時間として経験されていることが、自分を形成していることもある。制作とは間違いなく快感に繋がるようなものではない。逆に自分が作品に縛り付けられ身動きが出来なくなる苦行に近い。
そこに最近入れなくなった。こうやって人は作品が作れなくなるようだ。そういう人が今までに何人もいたのだろう。僕もそういう人になるのかと思い、そしてそれは嫌だなと思う。何故だろうか、明らかにその方が楽だし常識的だしお金もたまる、そして思う。安楽で常識的でお金がたまる生活を嫌悪してきたのは誰なんだと。そういう価値観を否定すべく、今ままでの行為があったのではないのかと。

細かな描写や手数の多さ、写実的リアルの追求が蔓延するのは、確信が持てないからなのだろう。次の構築をするにあたり、理解されやすいし凄さも伝わりやすいからだろう。そしてそれは作り手にも同時に言えることだ。そこに蓄積された行為ぐらいしかその作品の強度に繋がらないのだ。だから最近は具象が多い。不安なのだろう、何だか分からないものが怖いのだろう。しかし、そうなると僕がやることはその逆でなければならない。こういう時だからこそ、抽象的で理解されずらく蓄積行為も見えない作品を考えるべきだ。
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Christiane Löhr

05 08, 2015
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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