諏訪神社例大祭

09 28, 2014
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そういう「道具」に頼らずに

09 25, 2014
のび太を幸せにするミッションを終え、別れの時を知るドラえもんが「まったく君は、ドジでのろまで泣き虫でわがままで、」と延々続けながら涙を流すシーンを見ていると、愛だよなあと思う。そしてドラえもんに心配をかけまいと、ボロボロになりつつもジャイアンにしつこく立ち向かうのび太を見ても、愛だなあと思う。そして、無力な自分に関わるとしずかちゃんを不幸にすると悟ったのび太が、ある嫌われ薬を大量に飲んだことで、ドラえもんもお母さんも逃げ出し、かつのび太自身も気絶してしまう中、しずかちゃんだけは意志を維持し、のび太救出を果たすシーンは、強いとは何かを教えてくれる。ああ、こういう話があったあったと思う。初めてドラえもんを読んだ自分が、のび太達と同年代だった頃を思い出し、それはそれは懐かしい気分になる。

「STAND BY ME ドラえもん」監督 八木竜一、山崎貴 原作 藤子・F・不二雄
ある人がある人を思い、その人のために動く時人は感動する。自分のために起こす行動などたかが知れている。ただ、ドラえもんは様々な自分の弱さを克服する「道具」を出してくれる。しかし大切なことはその「道具」を使うことではなく、そういう「道具」に頼らず、どうしたらいいかを自分なりに考えることだったりする。誰でも、何か一気にこの局面を打破できないかとか、虫のいい事を願ってしまうが、そうではないのだろう。出来杉の偉大さを知り、足し算の練習から始めたのび太を見て、瞠目するドラえもんを見ていると、尊い行為とは何かを教えられる。もし自分にドラえもんがいたらどんな道具を出してもらうか、とか昔よく話題になったが、実際ドラえもんはいないのだ、願いは叶えてもらうものではない、ではどうするか?という厳しい現実を今さらのように思うのだった。
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画像:(C)2014「STAND BY ME ドラえもん」制作委員会
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手数とその密度

09 17, 2014
通常デザインの仕事は、その見え方であったり、効果であったり、影響であったりといった、その仕事が「どう社会的に受け入れられたのか」という部分が多々問題になり、そこで結果が出ていないと、それは「よろしくないデザインだった」という評価に繋がることが多い。そしてそういう種類の仕事を続けていると、いかに最小限の手数で最大の効果を生み出せるかとか、いかに効率よく及第点を取るかといった「消費社会の速度」に制作方法を合わせていかないと、実際仕事が進まなくなる。そして、そこにどっぷり浸かっていると、以前は確実にあった制作者としての純粋性が薄れ、消費されること前提の「一時の何か」しか作れなくなってしまう。それは寂しいことだが、多くの方々はそれを承知で、突き進むしかない。「それは違う」と誰もが言いたいのだが、それは今、誰もが言えない台詞となっている。

「岡本太郎とアール・ブリュット 生の芸術の地平へ」岡本太郎美術館
板橋の展示で一緒だった中津川浩章さんが企画に深く関わっておられる展覧会、そこで夏休み最後の日に娘と観に行った。娘は中津川さんの作品を観て、別の美術館で見た絵が何故ここにあるのか、という事実に驚いていたが、僕は展示されている全ての作品ひとつひとつに込められた、作者の手数とその密度に驚いた。そこには、姑息な手段や処理を相手にしない、ひたすら制作に対する一途な姿勢しかなく、作る心の根本があるように思えた。作品からは、作者それぞれの労力と集中力がストレートに見えてくるが、同時に奔放なユーモアも感じられ、素直に面白い作品がたくさんあった。

色んな事情で生きる人間が、何かを作ろうと思いつき、手本も何もない中で、その個人的な思いなり何なりを形にしていく行為は絶対的に尊い、しかしそれがイコール価値かどうかはわからない。しかし、こういう仕事を目の前にすると、自分がいかにつまらない価値感に縛られているかを自覚しつつ、そこを通してどれだけ「消費社会の速度」に惑わされていたかを思う。
ただ、僕はそうだったかもしれないが、世間は愚かではない。そろそろ効率最優先では行き詰まること、消費が最大の歓喜ではないこと、速度が大した価値もないこと等、様々な見せかけに気づいている。そこを隠そう、見ないようにしよう、という思考はもう無理がある。

展示作品の数々に影響されたのだろう、無性に無心になる作業をしたくなり、手を動かすことにした。考えるのではなくひたすら手を動かす。そこで生まれる形を尊重しつつ、そこであえて否定し、新しい形をその上に作りまたそれを否定し、という行程を繰り返すのだが、これがいつの間にか無心になれて楽しい。こういう時間をしばらく忘れていた。この試作がきっかけに新しいシリーズが出来るかもしれない。観に行って本当に良かったと思う。そして、そういう展覧会は多くない。10月5日まで。
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調布よさこい2014

09 01, 2014
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よさこいは、夜さり来い(夜にいらっしゃい)という古語が変化した言葉。または、高知県の民謡であるよさこい節、同県のよさこい祭りの略。他に高知県のよさこい祭りの形式を取り入れた、各地の祭り・イベント・踊りの呼称として、よさこいと呼ぶ場合がある。よさこい節のよさこいの意味は、どの説に従うかによって解釈が異なる。(ウィキペディア)
「調布よさこい」は、昭和52年から26回開催されてきた「調布ふるさとまつり」の見直しを契機に始まり、市内外のチームが旧甲州街道でよさこい流し踊りを披露する、調布最大級の夏イベント。現在の実施形態になってから12年目となり、地元の商店会のイベントとタイアップし、賑わいのある催し物として、定着している。(ちょうふどっとこむを要約)

近所の児童館で毎週行なわれる、よさこいクラブ的なものがあって、それに娘が参加しており、その本番ということで、調布駅近辺の旧甲州街道にでかけ、その「よさこい流し踊り」を見て来た。何年も調布市に住民票があるくせに、こういうことが行なわれていたとは全く知らなかった。老若男女が渾身の化粧と衣装で身をかため、それぞれのスタイルで踊り歩く姿は、なかなかのものであった。(常々ヤンキー度が高い地域だという印象があったが「これか」とも思った)
娘のチームは年齢層が若く(たぶん1〜5年生で構成)その身軽さを利用し、かなり速い動きが要求される踊りで、爆音と共にかけ声をあげつつ、鳴子をならしポーズを決める姿は、沿道からかなりの喝采を浴びていた。僕はその「よさこい」なるものが何だかも理解しておらず、運動会のお遊戯程度に思っていたのだが、完全に裏切られた。カッコいいと思った。特に先頭で踊る双子の姉妹などは実力があるのだろう、動きもプロっぽく乱れる髪を拭いながらもどこか余裕が感じられ、その「よさこい」という音感からは想像出来ないほど、激しくスタイリッシュだった。そしてたぶん、そういう上級生達から教えられたのだろう、小さな下級生達も一生懸命汗を流していた。「今日はよさこいだった」とかなんとか言って、お風呂で踊ろうとするので、危ないしやめさせ、あんまり重要視していなかったのだが、こんなに立派なことを学ぶチームに入っていたのかという事実を知り、嬉しかった。ここでみんなと一緒に踊り、拍手を浴びた経験を大切にしてほしいと思うと共に、自分が2年生の頃なんて何にもしていなかったし、今の子供は凄いなあと、素直に尊敬したのだった。
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任田進一

Author:任田進一
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