それぞれの瞬間

07 30, 2014
全ての生物は同じ時間と世界に生きているのではなく、別々の時間と世界に生きているという概念「環世界」を主張する、ユクスキュルというエストニア生まれの理論生物学者によると「瞬間」は、定義できるらしい。人間にとっての瞬間は1/18秒(約0.056秒)なのだそうだ。この数字の導出源は映画である。映画のフィルムは静止画としてのコマが縦に連なっている。これをそのまま流しただけでは絵は動かない。絵を動かすためには、1コマを映したらシャッターを閉じ、閉じている間にコマを移動し、移動し終わったら再びシャッターを開けて次のコマを映す。そして再びシャッターを閉じ、その間に次のコマを移動し、、、という作業を繰り返している。つまり、スクリーン上では映写と暗転が繰り返している。だが人間にはその暗転が感知できない。つまり、このコマの停止とスクリーンの暗転が1/18秒以内に行なわれると暗い部分が目には感じられない。(現在の映画は1/24秒)そこでユクスキュルは、人間にとって1/18秒 とは、それ以上分割できない最小の時間の器であると定義した。またこれは視覚に限らず、人間は1/18秒以上の空気振動が聞き分けられなかったり、触覚でも棒で皮膚を1秒間に18回以上突くと、ずっと棒が皮膚に押し当てられているように感じるらしい。感知の限界であるこの最小時間が「瞬間」なのではないか、というのが彼の考え方になる。なので、どう計ったのかは知らないが、カタツムリの「瞬間」は1/3秒だし、ベタという魚は1/30秒が「瞬間」になる。それぞれの生物には、それぞれ異なる時間が存在しているらしい。(國分功一郎:暇と退屈の倫理学より要約)

静止画なのか動画なのか、という境目を見せてくれたビル・ヴィオラが魅力的だったのは、そういう人間の瞬間概念を壊してくれたからかもしれない。単純に、ハイスピード撮影された雫でも割れる風船でも何でも、感知できなかったシーンが見えるというのは、それだけで充分面白かったりする。最近はデジタルカメラにもそういう機能があり、普通のシーンが突如スローになる、みたいな動画が簡単に作れる。そしてこういう時間の速度変化を利用した映像を見ていると、やはりユクスキュル的瞬間とは異なる瞬間が様々に存在する可能性を思わせる。瞬間を自覚できるまでいかなくても、ボールが止まって見える野球選手と長時間座禅を続ける僧侶とでは、明らかにそれぞれ別の時間概念が存在するだろうし、その先の「感知の限界である最小時間」にも差がありそうだ。そして、そこまで極端な例でないにしても、仕事に忙殺されている瞬間と、風呂上がりビール1杯目を飲みこんだ瞬間では、24倍早送りから突然スロー映像に切り替わるぐらいの体感時間の変化がありそうだ。
「環世界」の概念は、生物ごとに生きている世界が別であることを言うものだが、同じ人間でもそれぞれ生きている世界が別だったりする。きっと瞬間も同じではない。朝の用意をだ~らだ~ら進める子供を見ていると、彼らが明らかに親とは別次元の時間帯に存在していることがよくわかる。そしてそんな彼らが、ひとたび興味ある虫でもゲームでも漫画でもに意識が移行する時、その感知の限界である最小時間が1/10秒から1/20秒くらいにレベルアップしているように見える。

最近、時間の速度変化を多様した作品に着手し、そんな映像シーンの変化ばかり追っていると、元々撮影した速度がよくわからなくなる。そういう混乱を秘めたまま、外を見ると、外側で客観的に流れる時間と、それぞれの主体の内側で流れる時間が、漏れ出し融合したような光景が見えそうになる。ただ単に暑さについて行けてないだけかもしれないが。
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空気感が全然違う

07 17, 2014
娘はだいたい7時半過ぎに家を出て学校に向かう。先日、忘れ物を届けに娘を追いかけた。すぐに追いつくかと思っていたが意外に進んでおり、角をふたつほど曲がって下っていく坂道の先に、赤いランドセルを背負った娘を見つけた。そしてどういうわけか、その光景が新鮮だった。いつもの道がいつもの印象ではなく、またいつもの娘がいつもの姿ではない感じなのだ。言わば僕はその場所ではよそ者だった。小学生がパラパラ通学している道に、なんとも不釣り合いな大人が紛れ込んでいて、まあ妙ではあった。しかし、そういうビジュアルの異物感よりも、娘が歩いているその道の空気感が、もう全然違うのだった。
なぜか。状況はいたって単純だ。娘の姿を自分の生活圏内の道で見つけた。その人は自分の家族だし、道も知っている場所だし、それこそ日常感溢れるシーンのはずなのに、それは僕にとって明らかに非日常だった。たぶん娘の意識は、家を出た後徐々に僕抜きの日常へシフトしていたのだろう。そういう自然発生した他者の意識は、なかなか感じ取れないものだと思っていたが、先を歩く娘の後ろ姿を見ただけで、もう直感的に察知できた。「ああそこに僕はいないと思った」そして、それが伝わってくると、自分が見ている光景も変化するらしい。同じ場所でも感じ方次第で、全く別の光景が広がるようだ。例えば、家にカメラを設置して、そこを通る自分を撮り続ける。そのカメラを意識しているうちは、いつもの自分が写るのだろうが、なにかの拍子にその存在を忘れ、カメラを完全に意識していない自分がそこに写り始めると、今までの自分が知らない自分を見れたりするのだろうか。そんなことを、娘に忘れ物を届けて、家に戻る道すがら考えてしまった。
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任田進一

Author:任田進一
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