「ほっきょくのはじまり」の次は

06 23, 2014
小学校の公開授業へ。科目は図工だった。ぼかしの技術を使って、ゆめの世界をクレヨンで描くというもの。まず初めに、先生がティッシュや型紙を使ってそのぼかし技を披露する。生徒達がそれにいちいち感心しているところが微笑ましい。その後、それぞれが描き始めるのだが、先生の助言に基づき、お互いに濁らない色を選択して、キレイなグラデーションをメインに画面構成する子が多い中、娘はいきなり茶色と青色をぶつけてぼかし、ダークな世界を構成していた。画面の端のほうだけ、ビビットなオレンジが生きていたが、後は紫と茶色と青の連続で、画面いっぱいに広がる様々な線など元気はいいのだが、色的には重い感じの絵であった。だいたい1時間ぐらいでほとんどの生徒が完成し、タイトルを書く紙が配られる。そして、娘が迷いなく書いたタイトルが「夜のおわり」であった。一気にそのコンセプトが理解でき「おお」と思った。先日、地味な色問題があったばかりだが、本人としてはまだこの路線がやりたいのだろう。タイトルも前回が「ほっきょくのはじまり」今回が「夜のおわり」どことなく繋がりがあるように感じる。みんなが「ぼかしの~」とか具体的な説明をタイトルとする中、ひとり抽象イメージで突っ走る娘の姿を見て、後でたっぷり誉めてあげようと思った。
写真は「ほっきょくのはじまり」。「夜のおわり」が撮影できなくて残念。
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踏み止まって解決策を

06 20, 2014
家庭崩壊の原因が自分の行為にあることを知りつつ、それでも家族の再生を信じる男の願いが、行方不明の娘を探す過程を通して無惨に砕かれていく、どうにも救いのない暗い物語。

「果てしなき渇き」深町秋生(宝島社文庫)
いわゆるノワール系暗黒小説。僕が甘いのかもしれないが、人の悪意より善意を信じたいので、こういう「騙し」を前提に動く人々の行動が、どうも受け入れ難い。ましてや、他者を徹底的に傷付けることで、自分の隙間を埋める人種がよくわからない。しかし実際人間はそんなに美しいものでもない。厚木市5歳児放置事件みたいな悲劇的ニュースは日々後を断たない。
不条理と無縁な仕事などないし、生活を続けていくに際し、常に明るくハッピーです、と言い切れる人は少ないし、それなりの暗部は誰もが持っている。しかし、それでもなんとか世界を肯定する意識をひねり出し、やりくりしつつ進むしかない。

娘の宿題に音読があって。親はそれを聞いて評価するのだが、何気なく聞いたその日の音読はレオ・レオニと谷川俊太郎の名作「スイミー」であった。ほんの3分の間に、初めてスイミーを読んだ当時の記憶が蘇り、ガンガン読み進む娘の声とその話が、あまりに涙腺を刺激するので困った。子供が読む本は、ほとんど全てが世界の肯定に繋がり、その力を信じて良い、という話が多い。そして小さい子供は、そういう清い世界を疑わない。もちろん大人も、そういう考えを裏切りたくない。しかし、やむおえない何かが、それを壊すこともある。そういう怖さが世の中には潜んでいる。

先日、娘の保育園時代の友人達とその家族が集まりバーベキューをした。お互いの子供をいたわりながら、ギラつく太陽の下「暑い暑い」と言いながらガンガン冷えたビールを飲んだ。炭から出る煙に巻かれながら肉を焼き、その肉が次々と子供達の腹に収まっていく。そのうち子供同士が勝手に遊び始め、大人はさらに酔い始め、母親同士の過激な話と父親同士のゆるい話が混じり合い「ああ 酔った」という感覚を意識する頃には、初夏の夕方特有のいい風がでてきて、ひたすら気持ち良かった。ここにいる人達は皆、自分の子供をかわいがり、一生懸命育てている善意の人達なのだと思った。
子供が難しい年頃になっても、またこんな風にバーベキューができるだろうか。子供は成長と共に社会の多面性を知る。大人がそれほど大人ではないことや、一個人ではどうにも太刀打ちできない不条理と対峙することもあろう。そんな時、投げやりになるのではなく、踏み止まって解決策を考える強さを持って欲しい、と多くの親は願うはずだ。

毎日をできるだけ無事に過ごせるよう注意はしている。しかしそれでも、突如それぞれの宝物が壊れる事件が起こる可能性がないわけではない。こういう徹底的に暗い小説を読むと、今ある日常のありがたさを思う。
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homework

06 18, 2014
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玄関で寝る

06 12, 2014
酩酊するまで日本酒を呑んでしまい、朝気がついたら自宅の玄関で倒れていた。どうやら靴をぬいだ時点で力尽きたようだ。おひらきになった後の記憶がほとんどなく、よくここまで帰ってきたと思う。習慣というのは意外に頼りになるのかもしれない。二日酔い的な頭痛はなく、それなりに気分はスッキリしているので、相当長時間気を失っていたのだろう。しかし、今まで玄関で寝たことがなかったので、気がついた時に思う「ここはどこだ?」という感覚がかなり新鮮であった。それまでどんなに酔っていても、服を着替えるくらいの理性は残っていたし、起床時点の視界に驚くことなどなかったのだが、今回に関しては、目の前の光景と、そこに自分がいるという辻褄が合うまで、それなりに時間がかかった。そして、何か余計なことをしたのではないか、何故にそこまで酒を呑む必要があったのか、ひと通り自問する時間を過ごした後、事故に合わなくて良かった、とも思った。もういい年だし、今まで大丈夫だったことが、大丈夫ではなくなる事柄が増えてきたが、飲酒量もそこに入れねばならないようだ。しかし出来ることなら、適量のアルコールが体内を巡っている感覚をずっと楽しみたいとは思う。酒に強い人が羨ましい。
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任田進一

Author:任田進一
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