そばまんじゅう

12 31, 2013
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目を奪う力とは

12 26, 2013
先週末にヨドバシカメラの家電コーナーでTVを見た時、もうこんな凄い時代になっていたのかと思った。家にあるのが実に古い小さなTVなのでその落差は激しく、その大きさといい解像度といいシャープさ明るさ、そして3D。どれをとってもダメダメ状態であるウチのTVが哀れだった。映っていたのはアベンジャーズだったが、以前ウチで観たものとは全く違う印象を受けた。まず役者の顔が大きく鮮明なので、なんだか恥ずかしかった。また、なにゆえ破壊シーンが多かったのかが理解できた。こういう画面で見ると確かに効果的だろう。こんなTVが自宅にあったら、ずっとDVDを呆然と見続けてしまうかもしれない。さらに思った。TVにここまでの品質が必要なのだろうか。市場が求める過剰さが、ここにも極端な形で露呈しているのではなかろうか。
ウチのTVはほぼ娘しか使っていない。そこにはアニメや教育番組が映される程度なので、ウチではTVに対し何の支障もストレスもない。しかし、ああいうTVを知ってしまうと、物足りなさを感じなくもない。横で娘が、顔に対して大き過ぎる3D用の眼鏡をかけて、呆然と巨大なTV画面に引き込まれていた。きっといつも自分が見ているTVとの落差に愕然としているのだろう。もしかすると同じ名前を持つ機械と認識出来ていないかもしれない。冬のオリンピックでまたTVが売れるのだろうか。2020年には一体どんなTVが市場を席巻しているのだろう。本当は、こんな内容を書くつもりではなかったが、TVで書き始めたら、こんなことになってしまった。

「明るい部屋」高谷史郎(東京都写真美術館)
写真をやっている人からすると、このタイトルは畏敬の念が強過ぎて、なかなかつけられるものではない。しかしこの展示を観る限り、決してこのタイトルは大仰ではなく、初めて「明るい部屋」を読んだ時のような興奮を僕に与えてくれた。観る喜びとはこういうことだと思った。アベンジャーズも確かに凄いが、凄いものを凄くみせるのではなく、何気ないものがいかに凄いものであるかを、気づかせつつ見せる方が、僕は凄いと思う。作品を通して自分の眼の節穴度合いを実感し、作者の鋭敏な感覚と目が共振する体験は、そうあるものではない。最新のTVに映されていたハリウッド映画は、確かに目を奪う力に溢れていた。しかしそれは表面的で過度な視覚体験と言ってしまえばそれまでだ。(正直、グルスキーにも同じ感想を持った)刺激に慣れた目は、さらに過剰な刺激にしか反応できなくなる。僕が巨大なTVを見て少しひいてしまったのは、自分自身がどんどんそのTVにのまれて、視点が固定されることを恐れたからかもしれない。そうではなく、視点を解放するような作品を観たいと思う。私達が生きている日常の世界は、もっとささやかで繊細なものだ。巨大画面の爆発シーンのスペクタクルに目を慣れさせ、日常のそこかしこに潜む美しさを感知できなかったとしたら、それはカメラよりよほど高機能である目を退化させてしまうかもしれない。高谷氏の作品は「雲」「空」「植物」といったものが素材だったが、そのひとつひとつが、実に初めて見たかと思うほど、新鮮な姿をしていた。1日の雲の流れを魚眼レンズで撮影した作品「Chrono」は、まるで地球を取り巻く雲の球面上の動きが、再現されたようで、3D処理されていなくても、柔らかな立体感に満ちていた。また、自然の静止画と動画を同じ解像度(なんと7,000×30,000ピクセル)で撮影した作品「Toposcan」の細やかでダイナミックな映像変化は、自然の構造を、色彩の分解と再構成に還元する、魅惑的な視覚体験だった。他にもフロストアクリルフレームを使用した作品の柔和な写真作品など、定型化した写真展の在り方を完全に覆していたと思う。同じく2階で行なわれている「路上から世界を変えていく」が、その定型化した写真展そのものだったので、高谷氏の展示の価値がより明確になったのではなかろうか。

どことなく板橋の作品を作り終わった段階で、身体が一休みしていたが、ぼんやりしている場合ではないと思え、次の作品に向かうテンションが上がってきた。外の冷たい空気が気持ちよかった。そして、雲や植物がより鮮明に見えるようで嬉しかった。来月26日まで。
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画像:http://www.cinra.net/interview/2013/12/11/000000.php?page=2
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宝探し

12 24, 2013
小学校1年生は、気持ちがダイレクトに表情にでる。楽しいのかつまらないのか、非常にわかりやすい。こういっては何だが、幼い子供の笑顔は原理的にかわいいので、そこにはあまり個別の感情がみられない。たぶん個別の意志も曖昧だろう。まだまだ、楽しいことは心から楽しいという純粋な存在だ。先日自宅でクリスマス会をして、宝探しみたいのをやったのだが、端々でみつかるヒントを追って宝に迫る、娘やその友人達を見ていると、歓喜のエネルギーが渦を巻いて家中を駆け回っているようで、そこにあるのは、純粋な喜びのみであり、何かを思考した結果生まれる意志とは別の、子供特有のパワーだった。そういう子供力は無条件に周りを明るくする。そして、楽しさのウェーブに身を任せた、裏のない笑顔を見ていると、あと何年これが続くのかと思う。宝探しを本気でやったり、サンタクロースを信じたりとかは、あと3年ぐらいかもしれない。とすれば、サンタのフリした手紙を書いたり、宝を隠したり、そのヒントを仕掛けたりするのもあと3回くらいかと思うと、確かにこれは期間限定で親に許された喜びなのだろう。

もうその片鱗は見えるのだが、7歳の娘にも幼いとはいえ自分だけの思いがある。自分の得意不得意がクラスの中で顕在化し、自分がどういう存在なのかを考え始めているのだろう。そして、自分が出来ないことや気持ちが乗らないことは何か、逆に自分が楽しいと思えることや夢中になれることが何かを、区別出来るようになる。ただ今は、そういう確固たる意志というのが、何かに真剣になるとかではなく、どうしてもやりたくないとか行きたくない、という否定の形態を持って表に出るようだ。喜びの顔なり、夢中な顔というものには、今のところ子供のかわいらしい部分しか見えないが、何かを拒絶する時の顔には、個性を持った人間の苦悩が感じられ、そこには明らかに娘の個人的な表情が露出している。楽しませてもらえることだけが楽しい、というお膳立てされた枠内ではない状態で、肯定的な意志を持った娘の個人的な表情を見たいと思うが、まだそれは早いのかもしれない。そしてそれは、子供らしい無垢のかわいらしさが失われることに繋がる。サンタがいる世界から現実の世界に移行した顔になるわけだ。それはそれで正直寂しい。しかし、そのうち親が仕掛けた宝を探すのではなく、自分で自分の宝探しを始めるだろう。そうなったら仕方ない、娘がみつける宝がどんなものか見届けるしかない。そんな先の想像をしつつ、娘の寝顔を見た。明日の朝はどんな顔になるだろうか。
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スピノザの自由とデカルトの自由

12 11, 2013
「哲学者が走る」マーク・ローランズ(白水社)に書かれている、自由の概念が面白かった。
行為に体現された心、つまりスポーツか何かをやっていて、自分がイメージしているファインプレー的行為が、奇跡的に思うままに実現し心と体の一体化を感じる時、これをスピノザの自由という。スピノザの自由は、心と体の区別をなしくずしにしており、心と体はコインのように表裏一体だと考える。対してデカルトは、心は物理的なものではなく体とは異なる物質で構成されており、人間は物理学的な体と非物理学的な心の混合物とみなしていた。たとえば、再びスポーツで軽く負傷をした体に対して「我慢しろ」と、心が体を騙しつつ、なんとか勝利を目指すことはよくあろう、こういう状況で知覚される自由を、デカルトの自由という。スピノザの自由が若さで心と体の差を消し去る一方、デカルトの自由は逆に心と体のギャップを強調する。
飛躍するが、長距離走とは今の自分の到達点を受け入れる行為であるらしい。そしてこれは、いままでとは全く違った種類の自由が伴うようだ。そこで取り戻されるのは若さではなく、かつての自分が知っていたこと、成長する過程で忘れてしまった何か、大人になるために捨ててしまった何かである。そういった心が思い出せないことを体で思い出す方法が、長距離走らしい。つまり、この何か=人生の意味や価値を、心の中で見つけるのではなく、自分の血や骨の中に感じること、知的に理解するのではなく、内臓で味わうことが長距離走なのだ。

なるほど、だからあんなに市民ランナーがいるのか、ということがよく理解できた。この時代とかく意味や価値が求められる。そして市場で秀でるためには、それを理屈で説明しなければならない。しかし、やはりそうではない世界も同時に必要とされているのだろう。頭で理解するのではなく体で納得することで、人生の貴重な一部を取り戻せるとしたら、それは魅力的だ。ただこれは何も長距離走に限ったことでもないように思えた。先のスピノザとデカルトにしても、同じスポーツをやりながら行きつ戻りつ時間差でそれぞれの自由を味わっているようにも思う。作品を作っていても、単純作業の真っただ中にいたとしても、心と体は一体化したり乖離したりを繰り返しているのではなかろうか。

先日、美術館でのトークが終わり、学芸員さんや監視員さんとの飲み会で、作家が作品について鑑賞者にどの程度語っていいのか、みたいな話になった。これは確かに難しい問題で、それぞれ別の考え方があるだろうけれど「自由に観てもらっていいですよ」というのは意外に鑑賞者を困らせてしまう、という意見が多かった。ここでも意味等を分かりやすく説明できなければいけないようだ。しかし、マーク・ローランズが言うような長距離走的視点がアートにもあるとすれば、作品を知的に理解するのではなく、体で味わうこともあるかもしれない。そして、作家側が望んでいるのはたぶん後者だろう。つまり「この何か=作品の意味や価値を、作者の解説の中で見つけるのではなく、鑑賞者の血や骨の中で感じること、知的に理解するのではなく、内臓で味わうことがアートなのだ」となったら、それは理想的な作品体験だろう。都合が良過ぎるかもしれない。ただ「自由に観ていいですよ」には、そういう願いも込められている。

トークの翌日のやけにのんびりした日曜日、公園で娘が新しく覚えたという鉄棒の技を強制見学させられた。この年代は、心と体が乖離せずにほとんど一体化しているのだろう、その鉄棒に絡まって何かやっている娘は、その技をやることを心が望んでおり、同時にそれを見事に体が表現していて、おお「スピノザの自由だ」とか思ったのだった。
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そして、今週末にもトークイベントがあります。展示も充実していますので、是非観に来てください。写真の左下に写っているのは美術館で有名な猫。太り過ぎをみんなが心配していた。
http://www.itabashiartmuseum.jp/art/lecture/lc2013-14.html#01
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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