「哲学者が走る」マーク・ローランズ(白水社)に書かれている、自由の概念が面白かった。
行為に体現された心、つまりスポーツか何かをやっていて、自分がイメージしているファインプレー的行為が、奇跡的に思うままに実現し心と体の一体化を感じる時、これをスピノザの自由という。スピノザの自由は、心と体の区別をなしくずしにしており、心と体はコインのように表裏一体だと考える。対してデカルトは、心は物理的なものではなく体とは異なる物質で構成されており、人間は物理学的な体と非物理学的な心の混合物とみなしていた。たとえば、再びスポーツで軽く負傷をした体に対して「我慢しろ」と、心が体を騙しつつ、なんとか勝利を目指すことはよくあろう、こういう状況で知覚される自由を、デカルトの自由という。スピノザの自由が若さで心と体の差を消し去る一方、デカルトの自由は逆に心と体のギャップを強調する。
飛躍するが、長距離走とは今の自分の到達点を受け入れる行為であるらしい。そしてこれは、いままでとは全く違った種類の自由が伴うようだ。そこで取り戻されるのは若さではなく、かつての自分が知っていたこと、成長する過程で忘れてしまった何か、大人になるために捨ててしまった何かである。そういった心が思い出せないことを体で思い出す方法が、長距離走らしい。つまり、この何か=人生の意味や価値を、心の中で見つけるのではなく、自分の血や骨の中に感じること、知的に理解するのではなく、内臓で味わうことが長距離走なのだ。
なるほど、だからあんなに市民ランナーがいるのか、ということがよく理解できた。この時代とかく意味や価値が求められる。そして市場で秀でるためには、それを理屈で説明しなければならない。しかし、やはりそうではない世界も同時に必要とされているのだろう。頭で理解するのではなく体で納得することで、人生の貴重な一部を取り戻せるとしたら、それは魅力的だ。ただこれは何も長距離走に限ったことでもないように思えた。先のスピノザとデカルトにしても、同じスポーツをやりながら行きつ戻りつ時間差でそれぞれの自由を味わっているようにも思う。作品を作っていても、単純作業の真っただ中にいたとしても、心と体は一体化したり乖離したりを繰り返しているのではなかろうか。
先日、美術館でのトークが終わり、学芸員さんや監視員さんとの飲み会で、作家が作品について鑑賞者にどの程度語っていいのか、みたいな話になった。これは確かに難しい問題で、それぞれ別の考え方があるだろうけれど「自由に観てもらっていいですよ」というのは意外に鑑賞者を困らせてしまう、という意見が多かった。ここでも意味等を分かりやすく説明できなければいけないようだ。しかし、マーク・ローランズが言うような長距離走的視点がアートにもあるとすれば、作品を知的に理解するのではなく、体で味わうこともあるかもしれない。そして、作家側が望んでいるのはたぶん後者だろう。つまり「この何か=作品の意味や価値を、作者の解説の中で見つけるのではなく、鑑賞者の血や骨の中で感じること、知的に理解するのではなく、内臓で味わうことがアートなのだ」となったら、それは理想的な作品体験だろう。都合が良過ぎるかもしれない。ただ「自由に観ていいですよ」には、そういう願いも込められている。
トークの翌日のやけにのんびりした日曜日、公園で娘が新しく覚えたという鉄棒の技を強制見学させられた。この年代は、心と体が乖離せずにほとんど一体化しているのだろう、その鉄棒に絡まって何かやっている娘は、その技をやることを心が望んでおり、同時にそれを見事に体が表現していて、おお「スピノザの自由だ」とか思ったのだった。

そして、今週末にもトークイベントがあります。展示も充実していますので、是非観に来てください。写真の左下に写っているのは美術館で有名な猫。太り過ぎをみんなが心配していた。
http://www.itabashiartmuseum.jp/art/lecture/lc2013-14.html#01