夏休み的なことをすべく、娘と『「こびとづかん」のなつやすみ in とうきょう』で水道橋へ。なめきっていた当初の態度を、何度も反省するほど厳しい一日となった。
僕が高校生だった頃、遠足で行った後楽園ゆうえんちは今、名前を変えて「東京ドームシティ」となり、その規模も拡大された。そこには様々なアトラクションがあり、そのひとつづつに30分~40分の待ち時間がある。つまり後楽園ゆうえんちは、次元の違う立派なテーマパークにバージョンアップしていた。2003年のラクーア開業からだったらしいが、僕は長年東京に住んでいるにも関わらず全く知らなかった。そして今回のイベントも「こびと」の小さなフィギアが、どこかの狭い室内エリアで散在しているのを、子供が探すレベルだと思っていたが、事態は大きく異なり、東京ドームシティ全体を使った広大なオリエンテーリングだった。
配られた地図にある目撃情報に従い「こびと」を探すのだが、エリアが広いので、普通に移動距離が笑えない。しかも、子供のやる気は大人のそれと反比例するので、そのテンションに最後まで付き合わねばならず、炎天下も加わり正直僕はへろへろであった。実物大の小さな「こびと」が、観覧車の柱や看板の上になんともなしに配されているのだが、そのさりげなさは須田悦弘の作品のようで、ある程度気合いを入れないと見つからない。この、気づけば大した事ない視点が、モードを変えないと本当にわからない。娘の「あっ、いた!」という感覚が掴めるまで時間がかかった。しかし、コツが理解できるとそれはそれで面白く、企画側の思考も予想でき、汗を流しながら娘と移動し続けるのは、確かに夏休み的な体験を共有しているのかもしれなかった。
娘が何故そこまで「こびと」に執着するのか不思議だったが、子供特有の「何かがいる予感」の解明が、たぶん娘にとっても重要だったのだろう。大人はそういう実在的ではない感覚を重視しない。「こびとづかん」の世界観は、そのひとつの回答として子供らの感覚を掴んだのだ。例えば昆虫採集とかザリガニ捕りとか、昭和世代が普通に経験していたことを、ここの子供はなかなか味わえないが、得体の知れない何かがいる、それが何か知りたいという感覚を、もしかすると僕は、クワガタやザリガニを捕まえることで、それなりに満たしていたのかも知れない。そして本来ならそういった「何かがいる予感」の秘密を実感をさせるべく、娘と一緒に大きな自然の中へ、昆虫なり何なりを一緒に探しに行くべきなのだ。こんな都会で疑似体験していることが明らかにズレている。そんなことをコーラをガブ飲みしながら思った。そして、勝手ではあるけれど「こびとづかん」の奇妙な気持ち悪さ(怖さ)の秘密が少し理解できた気がした。
東京ドームシティにはお化け屋敷もあり、そこだけは異常な人気で2時間待ちだった。たぶん今風の新しい恐怖が、そこに付加されているのだろう。幽霊の存在も思えば「何かがいる予感」に繋がる。お盆にそういう体験を求めることが、人間の本能なのかもしれない。考えれば、見えない何かの秘密を様々に解釈して体験する、そんなことはいつでも出来るはずなのに、いつの間にか夏休み限定の行事になったようだ。それにしても「怖さ」がなぜそこに必要なのか「見ない方がいい」からなのだろうか。


