残すところあと3日

08 30, 2013
先日、展示させて頂いている白白庵の「冷酒利き酒と夏の器使いのワークショップ」に行ってきた。作家が手をかけて制作した器で、この日のために吟味されたであろう冷酒をあおりつつ、普段聞けないような貴重な話の数々に耳を傾けながら、どんどん酔っていくのは、まあ楽しいのだった。参加作家の方々や、ワークショップに来られた方々と、色んな話ができるのは嬉しい限りで、制作を続けてきて良かったと実感できた。

そして、この展示も残すところあと3日になりました。既に会場に足を運んで頂いた方々、どうもありがとうございました。そしてまだの方々、あと3日です。会場は、複数の作家の作品が粛然と共鳴した見事な空間に仕上がっています。特に夕方の自然光に包まれる時間帯は最高です。夏の終わりに是非とも、ご高覧ください。どうぞ、よろしくお願い致します。
http://www.pakupakuan.jp/information/201308.html
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美を感じる秘密

08 21, 2013
ラットに餌を与える時に、箱を2つ用意する。ひとつは正方形、もうひとつは長方形である。そしてどちらかの箱を選ばせ、長方形の箱を選んだ時にだけ餌を与える。これを繰り返すと、ラットは正方形の箱に興味を示さなくなる。そしてある時、今までの長方形以上に細長い長方形の箱を用意し、どちらかを選ばせると、ラットは今までの箱ではなく、より長方形らしい新しい箱を選ぶ。これはラットが「なんて素敵な長方形!」と思うかららしい。これはピークシフトの法則と呼ばれており、同じ傾向を示す例として、セグロカモメのひな鳥が、親から餌をもらう時に、何を持って親を識別しているのか、という実験もある。実験の結果、くちばしの端に付いている赤い斑点が、親を示すマークであることが判明する。つまり「赤い斑点の付いた長いもの=お母さん」という意識で、ひな鳥は餌を求めるわけだ。つまり本物の親でなくても、細長い先端に赤い斑点があれば、ひな鳥としてはOKらしい。そこで、その赤い斑点を3本のストライプに変えて、ひな鳥の反応を試したところ、ひな鳥は極端な興奮状態になったらしい。それは「スーパーお母さん」が「凄い餌」を持って現れたかのごとくであった。とまでは書かれていないが、それに近いような反応だったようだ。このように形態や色を識別し、それによって反応を変える生物はたくさんいる。つまり美の認識は、人間だけのものではないと、本書は言う。そして、人間が美を感じる構造の解明を試みる。

「脳のなかの天使」V.S.チャンドラン(角川書店)
著者は、ラットやセグロカモメのひな鳥の行為と、アートを観る人間の反応を比較し、両者ともに同じような現象ではないかと主張する。つまり、作品を観て興奮する人間の意識は、ピークシフトの法則そのものだ、というわけだが、本当にそうだろうか、という思いがどうも消えなかった。作品を見て何を思うかは、なかなか説明できるものではない。見方の軸となる基準があって、そこを起点に作品レベルの優劣が決まり、それによって感情が左右される、というようなタイプで見れる作品もあるかもしれないが、そうではない作品は多々ある。何より、感動のシステムはこういう構造なんですよ、という種明かしをされるのが、なんとも腑に落ちない。しかも著者は、大胆にも美の普遍的法則を以下の9つの言葉でまとめている。

1:グループ化、2:ピークシフト、3:コントラスト、4:単離、5:いないいないばあ、もしくは知覚の問題解決、6:偶然の一致を嫌う、7:秩序性、8:対称性、9:メタファー

本書は、先のピークシフトのように例をあげつつ、美を感じる秘密がどこにあるのか、それを科学的に実験することはできないのかと、この9つの言葉をもとに思考する。そういうテーマを持つ学者がいることは仕方ないことだし、僕が何かを言える立場ではないが「美」とか「感動」といった、個人がそれぞれの思いで実感するその構造に、実は一律の方程式があったというのは、なんとも残念な話にしか聞こえない。なんでこんなに感動するのかわからない、という体験の方が、美の深さを実感できるのではないか、とか思うのだが、それは消極的な発想だろうか。
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何かがいる予感

08 15, 2013
夏休み的なことをすべく、娘と『「こびとづかん」のなつやすみ in とうきょう』で水道橋へ。なめきっていた当初の態度を、何度も反省するほど厳しい一日となった。

僕が高校生だった頃、遠足で行った後楽園ゆうえんちは今、名前を変えて「東京ドームシティ」となり、その規模も拡大された。そこには様々なアトラクションがあり、そのひとつづつに30分~40分の待ち時間がある。つまり後楽園ゆうえんちは、次元の違う立派なテーマパークにバージョンアップしていた。2003年のラクーア開業からだったらしいが、僕は長年東京に住んでいるにも関わらず全く知らなかった。そして今回のイベントも「こびと」の小さなフィギアが、どこかの狭い室内エリアで散在しているのを、子供が探すレベルだと思っていたが、事態は大きく異なり、東京ドームシティ全体を使った広大なオリエンテーリングだった。
配られた地図にある目撃情報に従い「こびと」を探すのだが、エリアが広いので、普通に移動距離が笑えない。しかも、子供のやる気は大人のそれと反比例するので、そのテンションに最後まで付き合わねばならず、炎天下も加わり正直僕はへろへろであった。実物大の小さな「こびと」が、観覧車の柱や看板の上になんともなしに配されているのだが、そのさりげなさは須田悦弘の作品のようで、ある程度気合いを入れないと見つからない。この、気づけば大した事ない視点が、モードを変えないと本当にわからない。娘の「あっ、いた!」という感覚が掴めるまで時間がかかった。しかし、コツが理解できるとそれはそれで面白く、企画側の思考も予想でき、汗を流しながら娘と移動し続けるのは、確かに夏休み的な体験を共有しているのかもしれなかった。

娘が何故そこまで「こびと」に執着するのか不思議だったが、子供特有の「何かがいる予感」の解明が、たぶん娘にとっても重要だったのだろう。大人はそういう実在的ではない感覚を重視しない。「こびとづかん」の世界観は、そのひとつの回答として子供らの感覚を掴んだのだ。例えば昆虫採集とかザリガニ捕りとか、昭和世代が普通に経験していたことを、ここの子供はなかなか味わえないが、得体の知れない何かがいる、それが何か知りたいという感覚を、もしかすると僕は、クワガタやザリガニを捕まえることで、それなりに満たしていたのかも知れない。そして本来ならそういった「何かがいる予感」の秘密を実感をさせるべく、娘と一緒に大きな自然の中へ、昆虫なり何なりを一緒に探しに行くべきなのだ。こんな都会で疑似体験していることが明らかにズレている。そんなことをコーラをガブ飲みしながら思った。そして、勝手ではあるけれど「こびとづかん」の奇妙な気持ち悪さ(怖さ)の秘密が少し理解できた気がした。

東京ドームシティにはお化け屋敷もあり、そこだけは異常な人気で2時間待ちだった。たぶん今風の新しい恐怖が、そこに付加されているのだろう。幽霊の存在も思えば「何かがいる予感」に繋がる。お盆にそういう体験を求めることが、人間の本能なのかもしれない。考えれば、見えない何かの秘密を様々に解釈して体験する、そんなことはいつでも出来るはずなのに、いつの間にか夏休み限定の行事になったようだ。それにしても「怖さ」がなぜそこに必要なのか「見ない方がいい」からなのだろうか。
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ずっと雨が降っている

08 09, 2013
珍しくはないが、対象の好きなところだけに焦点をあてて、見たくないものはぼかしてしまうという撮影技術がある。被写界深度を浅くするわけだが、そうして出来る写真は私達の普段の視点とは異なり、明らかに雰囲気が助長され抽象的なイメージが付加される。その手法をアニメーションに生かすと、こういう見え方になるのかと思った。

「言の葉の庭」監督 新海誠(2013年日本)
全編ため息がでるくらい綺麗な絵の連続である。自然描写はもちろんのこと、それは満員電車の中でも、散らかった部屋の中でも同じように美しい。だからか見ているうちに、世界はそんなに美しくないんじゃないか、という気分になる。しかし、それは僕の眼が汚れているからであって、こんな風に世の中が見える人もいるのだ、とか考えていたら、被写界深度を浅くする視点が多用されていることに気づいた。少しの工夫で、随分と新鮮な画面になるものだと感心した。

「鳴る神の 少し響(とよ)みてさし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
(雷がかすかに響いて、曇って雨も降ってこないかしら、そうすれば、あなたの帰りを引き留めましょうに)
「鳴る神の 少し響みて降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」
(雷がかすかに響いて、雨が降らなくても、私は留まりますよ、あなたが引き留めるならば)

という万葉集の歌が使われているが、確かにこういう歌に合わせることを考えると、余計な情報はぼかした絵の方が似合うのかもしれない。焦点を絞り込むことで、逆に広がる世界もあるということか。

雨が重要な物語要素なので、ほとんどのシーンで雨が降っている。そして、その雨の表情が実に丁寧だった。「線で色を描き、面で環境光を入れる」のだそうだ、正直ストーリーはどうでもよい感じだったが、その絵の綺麗さからは、学ぶべき要素が相当あると思われた。
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画像:http://i.gzn.jp/img/2013/02/21/kotonohanoniwa-trailer/kotonoha-18.png
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自分は何者か

08 06, 2013
人が自分のことをどう思っているのかを知る術はないと思っていたが、今はネット上に匿名でたれ流されるツイートに、その片鱗を見ることが可能らしい。そしてそれはメールアドレスからあっさり辿れるようで、もうそこには友情も何もあったものではない。僕はツイッターをしないのでその感覚がわからないが、これに慣れると、匿名がゆえの他者攻撃リミッターが、簡単に切れてしまうようで、とても恐ろしい。
本書の登場人物達が就職活動で日々社会から否定される中、なんとか自分を特別な存在にしたいがために、お互いを見下す言葉がぶつかる裏面ツイートの暴露シーンがあるのだが、それはホラー映画のスプラッター的やばさが充満しており、見たくない感情の闇を見せつけられるようだった。

「何者」朝井リョウ(新潮社)
出世作の「桐島、部活やめるってよ」で、スクールカーストと呼ばれ始めた生徒の上下関係をテーマに、学校の冷徹な日常を暴露した著者が、今回は就職活動で迷走する若者達を描写している。僕は今の就職活動がどんなものだが詳しくないが、対会社としての登場キャラ達の自己アピール方法は、どれもそれなりに理解できる。しかしそのどれもが無理をしている。そういう自分を凄く見せようという方策は、たぶん何の役にも立たない。他者に理解してもらうためには「いかに武装するかではなく、いかに裸を晒すのか」ではなかろうか。では今の自分にそれが出来るのか、となるとそれはまた別問題だ。裸になるのはとても難しい。

そう考えるとさらに遡った10代の頃から、僕はあんまり変わっていないのかもしれない。当時の記憶を思い返すと、恥ずかしさで気絶しそうなエピソードの数々が思い浮かぶ。あの10代というのは、個人が持っている生命力がもろに露出する時期であり、努力とか関係無しに、その生命力=魅力という希有な直結が見られる年代だった。そのうち社会に接していくにあたり、生命力だけではどうにもならないので、様々な職種を選択し、その道の生き方を学び、徐々に無くなっていく生命力を様々なモノでカバーし、武器を増やすわけだが、当時はそんな技など誰も見ていない。その人個人が持っている最もプリミティブなパワーだけが、彼らの世界では評価対象となるため、その力が弱ければ、もうどうにもならない。おとなしく勉強するか、何か自分が見つけた大切なものを、ひたすら掘り下げるしかない。そしてそれはある意味屈辱的だが、大人になっても同じような状況であることを思えば、それこそが重要だったのだろう。そういう長年培って出来た自分の血と肉以外は、結局いつか剥がれてしまうものだ。

就職活動マニュアルに必死に自分を合わせる人、就職活動から離れて自分の個性や努力の過程を必死にアピールする人、それらを観察することで冷静さを保とうと必死な人。どれが良いのかではない、それで自分の自然な姿を維持できるのかどうか、ではなかろうか。他者を否定することでしか、自分を肯定できないのであれば、そこから先はない。期間限定で何かを慌てて取り繕っても痛々しい。日々どう過ごして来たのかが、いつも問われているのだと思う。そしてそれは死ぬまで続く。本書はいわゆる就活話だが、それはただの代名詞にすぎず、潜んでいるものは変わらない、自分が「何者か」考えてしまうのだった。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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