本能の活発な露出

04 28, 2013
授業参観に行った。少子化と言われているが、娘が通っている小学校は、2年生から6年生まで3クラスだが、1年生だけは4クラスなので、この地は例外なのかもしれない。しかし、32人で1クラスという光景は、48人で1クラスだった自分の頃と比べると、やはり閑散としていた。とはいえ、この程度の人数の方が、先生もやりやすいだろうとは思った。

先生の質問がわかる人は手を挙げるが、その挙手の仕方が新鮮だった。初めて挙げる人は人差し指を立てる。1回あてられた人はチョキの状態で挙手していた。公平さの現れだろうか、僕の時代にはなかった光景だ。元気に挙手してあてられた子が堂々と「わかりません!」と言うのは、さすが1年生という感じで爽やかだった。質問の難易度もあるが、こんなに手が挙がると先生も楽しいだろうと思われ、大人が行う沈黙の会議とは別物であった。しかし、いつかこの子達も、発言に伴う責任を覚えるだろう、その時も同じように手を挙げられるだろうか。

授業内容は、同じくして行われる防災訓練に合わせて、様々な状況でどう身を守るか、というものであった。先生の始めの質問が「いのちって何だと思いますか?」という非常に難しい問いだったのだが、そこでいきなり娘は手を挙げていた。大丈夫か、という親の心配をよそに、娘は「こころです」と答えていた。それが正解かどうかわからないが、別の子も同じように答えていたところをみると、支持される解答ではあったようだ。
ある程度年齢を経ると、挙手して答える場合、別の人が言った内容とは異なる発言をするものだが、1年生にそんな縛りはないらしく、皆どんどん手を挙げ何度も同じ答えを連発するのだった。無法地帯となったクラスを鎮める先生の苦労が偲ばれる。関係ないが、娘の担任の先生は無駄に美しく、参観者は明らかにお父さんが多かった。

正直、平日は仕事に忙殺されたこともあり、せっかくの休みだし何も考えず過ごしたいと思っていたが、おだやかな天気の中、元気のいい子供の行動を見ていると、実に欲のままで気持ちよい。その時その時の気分の盛り上がりで動いているその姿は、本能の活発な露出を思わせ、なんとも心を解放してくれるのだった。
校庭で行われた防災訓練では、煙ハウス体験、救出訓練等々あったが、子供にしてみれば全てがエンターテイメントである。特に煙りハウスには長蛇の列ができ、何度も煙に巻かれては狂喜している子供が続出していた。悲惨な状況に対峙する訓練が喜びに満ちた声で埋まる状況は、なんとも平和だった。

大地震は必ず来ると言われている。たぶん本当のことなのだろう。それが避けられないのであれば、建物等々の被害は仕方ないにしても、少なくともこういう子供達の元気な命に、傷がつきませんようにと思うのだった。
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ぼやけた白世界で深い霧のなかにいる

04 24, 2013
眼は大切だ。しかし僕の眼は視神経が萎縮しており、これが原因で最悪の場合失明に繋がることもあるらしく、定期的に眼科に行っているが、幸い今のところ症状の悪化はない。けれど気の毒なことに世の中には、ある日突然理由もなくとか、不条理な事故によって失明した方々がいる。ウィキペディアにはこう書いてあった。
「失明した者からの視点は、『ぼやけた白世界で深い霧のなかにいる』という感覚である。」

「最後のとき/最初のとき」ソフィ・カル(原美術館)
失明している方々本人に「最後に見たシーンはどういうものでしたか」というとても聞けないようなことを聞き、そのシーンを再現したした写真と合わせて、その失明者とその人が語ったテキストが合わせて展示されている。とても不幸な境遇にぶつかった人々が語るエピソードはどれも重たい。写真が収められたフレームが鉛のような質感だったが、それもその作品のアウトプットによく合致していた。プリントされるサイズも一定ではなく、そのレイアウトも含め実に絶妙で、デザイン能力の高さが伺える。しかし、その内容は繰り返すが重たい。視界に入る外観とその内容のギャップに戸惑う。そして、これがソフィ・カルの真骨頂なのだろう。
そういえば14年前に観た「限局性激痛」に接した時、美術とは何なのか相当考え込むはめになったが、今回もそのあっさりした展示空間とは裏腹に、見るとか見えるとかが何を意味しているのか考え込むことになった。
僕は幸運なことに、パリのポンピドゥー・センターで、ソフィ・カルの大々的な個展を観たことがある。賑わう人々に紛れ、盲目の人に「美のイメージとは何か」と聞き、そのシーンと応えられたそのテキストと、痛ましいその眼を持った方々の写真を観てまわった。曖昧な記憶だが、別の展示では手だけが写されており、その手の稼ぎ出す金額と、その手の持ち主が思うお金のイメージのテキストが提示されていた。僕はフランス語が全く分からないので、並列されている英語を通して感覚的にしか観れなかったが、当然この人の展示は、添えられている言葉が重要なので、今回のように和訳があると、やはりありがたいのだった。

一方、言葉が一切ない映像作品もあった。初めて海を見る人々を捉えたシーンの数々は、実に厳かだった。個人的に相当追い込まれる仕事が最近乱立していて、日中が忙殺される中、こういう決定的なタイミングに接する人々の表情を見ていると、何故か心の余裕が生まれるのだった。庭を見渡す空間では、初めての海と戯れる子供達がはしゃいでおり、どういうわけか救われたような気持ちになった。ただ、これらの映像は全てが、白くフェードアウトすることで終わるのだが、その白が、自分の眼が失明していくようでもあり、どこか怖くもあるのだった。会場には、本当に失明している人もいて、同行者が言葉でその作品を説明していたが、なんとも形容し難い光景で、あまりにも作品の内容とかぶるので、パフォーマンスではないのかと思ったが、見えないという事実を抱えた方々はやはり、見えるとはどういうことなのか知りたいだろうし、しかしその体験は不可能なわけだが、こういう作品を通じて、何かその感覚の一端でも味わってもらえたらとか、他人ながらに思った。自分が普通に行っていることの貴重さを思い知ることになった。
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画像:http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/7MLvphyuOE5ifoD0248Q/
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そして、初めて海を見た娘。
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絶望の詩は人を絶望させません

04 15, 2013
どのような経緯で、その仕事を始めるようになったのか、というきっかけが劇的であれば、その仕事も劇的になるのだろうか。安泰なルートで就職した若者が、先輩社員に懇切丁寧に指導してもらいつつ進める仕事と、夜の街を彷徨いつつ生きる術を独りでつかみ取り、同性愛も含む人間関係を最大限利用し、どん欲に狡猾にその分野のルールを学んだ末に披露する仕事は、レベルが全く違う次元になるのだろうか。

「フランシス・ベイコン」マイケル・ペピアット(新潮社)
まだ途中だけれどこちらの方が、なぜ彼があのような作品を描くに至ったのか、という経緯が腑に落ちた。先日、竹橋であの展示を観て、もっとフランシス・ベイコンを知ろうと思い、彼のインタビュー集である「肉への慈悲」を読んだが、確かに「作品」という、考えればどうとでもなる得体の知れない何かに向かう思考法として読めば、刺激的で的を得ている言葉の数々が羅列され、今後も時々見直すことになるだろうけれど、あのベイコン独特のヤバイ感じに潜む秘密がどこにあるのかは、なかなか見えなかった。思えば、今回の近代美術館の展示でも、代表作であろうTATEの「磔刑の基部の人物像のための三つの習作」とかMoMAの「絵画 1946年」は、さすがに観れないわけで、どことなく良質なベイコン展という感じで、吐き気を伴い体調を崩してしまう大人や、泣き出す子供続出といった狂気じみた展示ではなかった。
僕が初めて彼を知ったのは、美術予備校の資料室で、友人に教えてもらったのがきっかけだったが、あのエイリアンが腹を突き破って出てくるシーンさながらの、口だけのろくろ首的生命体が何やら強烈な赤を背景に蠢いている絵は、実にヤバイ感じで、叫ぶ口の描写は楳図かずおだけかと思っていたうぶな高校生をビビらせるには充分だった。しかしその後、まとまって作品を観る機会がなく、今回の展示は、ほぼ初めて本物の数々を観れるわけで、相当楽しみであった。しかし正直、あの高校生の時に受けたショックはなく、意外にすんなり作品を観れてしまうのだった。

入れなさそうな店というものがある。素人お断りで関係者のみが集まるような、扉も触れないような夜の店に、唐突に引き込まれてしまった感覚が僕のベイコンの印象で、閲覧禁止の本を読むような、興奮と戸惑いを今回も体験したかったのだが、それは願い過ぎだった。とはいえフランシス・ベイコンである、面白くないわけはなく、もう少し勉強しようと思い、その伝記を読み始め、彼の不幸と幸運、その性癖、裕福だった境遇を利用した上流階級での振る舞い方、その逆の世界での彷徨い方、デザイナーとしての思考等々を知るに連れ、ようやく落ち着いてきた。思うのは人間関係の重要さだった。その人生において、誰と出会ったのか、誰と共に時間を過ごしたのかは、個人の人格形成とその人が行う仕事を大きく左右するという、かなり当たり前の事実だった。後はピカソの存在ということになるのだろう。

表面的な外観をとにかく溶かしてしまうようなあの肖像画を観ていると、まどみちおの詩「みているものは、みていないのだ」というフレーズがいつも浮かぶ。人間は何を見るべきなのか、皮を剥いたその本性がどんな姿なのか、それは美しいのか醜いのか。ベイコンの絵を観ていると、ただただ得体が知れない何かに、必死で形を与えようとしている行為が見えてくる。そこには快感とは遠い底抜けの不安が広がる。人間があんな風に感じられることは異常だが、その異常さに潜む現実のもうひとつの姿に、皆惚れ込み共感してしまうのだろう。
ジョン・ローゼンシュタインは「彼は、人生に意味はない、死の後にはなにも残らないと考えている。けれど彼は地獄を、いまここの地獄を信じている」と書いている。一方、先の「肉への慈悲」のインタビューでは、ベイコンはこう応える。「ええ。地獄に落ちたとしても、脱出するチャンスはあると、いつまでも思っているでしょう。きっといつか脱出できると思い続けます。」ミシェル・レリスの言葉が響く「絶望の詩は人を絶望させません。すぐれた作品は、決して人の心をくじきはしません。」
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画像:http://www.tate.org.uk/art/artworks/bacon-three-studies-for-figures-at-the-base-of-a-crucifixion-n06171
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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