言葉から離れたい時

02 28, 2013
「漫画が読みたい時」というのがあって、その時自分が求めているのは、革新的な新しさではなく、分かりやすい安心感をベースにした、それなりの刺激なんだと思う。いうなれば、始めからわかっていることを、あらためて別の言い方で肯定してもらうような要素を、僕は漫画に求めている。あとは 「善意」だろうか。

「ママゴト」松田洋子(エンターブレイン)
わかりやすい話で丁寧な絵なのだが、漫画に熟知した人からすると、どこにも新しさはないと評価されそうだ。しかし休日に酩酊しながら読んだ結果、いわゆる胸がわし掴まれる状態になった。5歳というのは、それ以前の純白な感覚と、どことなく理解し始めた世の中を語る生意気な言葉が、同居する希有な存在で、時々核心を突くような発言をする。すさみつつも強がる主人公が、5歳児に何度も射抜かれるのだが、そのやられ感が大人には気持ち良い。心を打ち抜かれる主人公の表情がアップになり、そのこまやかな描写が物語る「諦め、喜び、期待、落胆、安心」等々の感情は、どれも見事だった。対して、関係を深めていく子供は、どれもサラリと描かれている。確かに子供の顔に、細かな線は必要ない。まっすぐ大人を見上げつつ、殺し文句をつぶやけば、それで充分なのだろう。漫画全体に漂う、やんわりとした広島弁もいい感じだった。

僕はアートをやりつつ、日々の消費経済をさらに助長すべく、もう日本ではほぼ飽和していると思われる「メーカーの商品開発」の一端にも関わっているのだが、そこにも「革新的な新しさ」は、実はあまり求められていない。それよりも、いかに周囲の好みを理解しやすく実現できたか、が問題になる。そこには細かなコンセンサスを基軸に「どう良く見せるか」が勝負を分ける。個人の思いや感覚以上に、ドライな調査結果がモノを言う。しかし作り手は機械ではない。なんとかテンションを上げ、少しでも納得のいくモノ作りをせねばならない。その時何が最後の砦になるか、それは「やってやる」という感情や「これならどうか」という感覚以外の何ものでもない。しかし、そこに説得力を認める人は少ない。今は感覚以上に数字や言葉が重宝される。

「カラバッジオからの旅」千葉成夫(五柳書院)
批評家が言葉から離れて、どこまで感覚で絵を観れるのかに挑戦する話。形や描かれている背景等は、なかなか言葉から自由にはなれないが、色彩というものに関しては、感覚的に絵を観れることに著者は気づく。優れた作品は、必ず描かれたもの以上の何かを持っている。それを観るためには、言葉と感覚の割合を変えて、作品と対峙する必要があるのではないかと著者は考え言う。「僕たちの身体は、言葉や文字が誕生する以前の『ひろがり』を蔵している。いや、そういう『ひろがり』から成っているとさえ言っていいのだが、ある方向に発達してしまった脳のせいで、僕たちにはそれがうまく感じられなくなってしまっている気がする。」

説得には言葉が必須な反面、共感には感覚が重要だろう。説得されるのは、どことなくやり込められてしまった気持ちが消えず、受動的な意味合いから逃れられないが、共感には能動的なイメージが絡むような気がする。印象的なフレーズがあった。「感覚の論理」はなかなか言葉にならない。むしろ、ある種の沈黙を好むようである。と。

漫画の話に戻る。たぶん漫画はかなり感覚で読めるものだと思う。絵だけをどことなく追っていくだけで、なんとなくそのストーリーは見えるが、それ以上に、そこで蠢く人間達の感情の起伏等の変化が、絵を通して感覚で刺激されるのだ。あの、どう見てもありきたりで、探せばこのような話は様々なバージョンで見つかるでろう「ママゴト」に、揺さぶられてしまたのは、自分ではそれなりに鍛えているつもりだったその感覚が、実は錆び付いており、久しぶりにガリガリ研がれた結果なのかもしれない。

言葉が重要なのは分かる。しかし、言葉には個人の意志というよりは、どことなく他者の意志の介在も匂う。しかし感覚はどこまでも個人の何かであって、少なくとも他者の意志はない。多くの人を納得させる言葉の反対側に、それと同等の価値を持つ個人の感覚があってもいいのに、と最近切に思う。「漫画が読みたい時」というのは、もしかすると、言葉から離れたい時なのかもしれない。
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画像:http://comic-twitter.blog.so-net.ne.jp/mamagoto
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深層と表層 もしくは オタクとギャル

02 13, 2013
「ギャル」のガングロファッションが今もあるのか知らないが、あのインパクトは、そのガングロ化粧の基本スタイルを踏襲しつつ、 そのフレーム内での競争を激化させたため、かの過剰な表層を生み出してしまった。そして、彼女達が使用する言語「ギャル語」もその化粧同様、一般人から遠く離れ、およそ日本語とは思えない進化を遂げている。例えば「盛る(化粧する)」などは、それを基本形にガンやガツを加え「ガン盛り」「ガツ盛り」といった微妙な使い分けがなされる。その化粧への気合いの差がそこにはあるのだろう。また「ウケる」等の相づち表現として使用される言語の数々は、その情報伝達の意味すら曖昧で、その場の空気の存続だけにあるらしい。斎藤環はそれを「毛づくろい的会話」と言っているが、その「会話をするための会話」こそが、お互いの関係をまろやかにすべく重要とのこと。確かに男は会話において早急に結論を求めたがる。これでは円満な空気を維持することができない。まあ仕事に円満な空気が必要か、という問題はあるが。

一方「オタク」と称される方々は、そのギャル語とは全く異なる「オタク言語」で話す。ただその言語は、ほとんど進化しない。オタク達は、素の状態での情緒的コミュニケーションが苦手なため、その時の気持ちを自分の言葉で表現せずに、有名主人公の台詞で済ますからだ。例えば、出発する際「○○行きまーす」とか、光がまぶしければ「うぉっまぶしっ」さらにまぶしければ「目が!目がぁ!」 と叫び、料理が美味しければ「むほぅ」と、とりあえず言っておく。その感情表現において、どちらにオリジナリティーがあるかは明白で、ギャル達の集団的想像力の見事さには敬服するしかない。

ギャルは軽やかに表層をすべり続け、状況を敏感に察知し自分を変化させていく。逆に、オタクはじっくりその深層を掘り続け、状況の変化に自分を合わせない。その対極的な在り方は、交差することなく離れていくだけだが、少なくとも自分はどちら側か、つまり「ギャル系」か「オタク系」か、という線引きはできそうである。

しかし、もうひとつ「ヤンキー系」というエリアが存在する。僕は調布に住んでいるが、地元のお祭り行事に参加すると、いわゆる「ヤンキー系」の方々を多く見かける。その元EXILEのような雰囲気は、見事な統一感となって外見に表れる。そこにはひとつの様式美があり、そのフレーム内で個々の美意識が微妙な差異となってそれぞれのオリジナリティーに繋がっている。同じようで同じでない個性がそこにはある。「ヤンキー」と「ギャル」の違いは何か、さらにやっかいなことに「ギャル男」もいるようなので「ヤンキー」の定義はなかなか難しい。ウィキペディアでは「ヤンキーとは、本来はアメリカ人を指すYankeeが語源。日本では、「周囲を威嚇するような強そうな格好をして、仲間から一目おかれたい」という少年少女。また、それら少年少女のファッション傾向や消費傾向、ライフスタイルを指す場合もある。口伝えで広まった言葉のため、本来の意味を知らない多くの人々によってあいまいな定義のまま使用されることが多く、「非行少年(不良)」「チンピラ」「不良軍団」など多くの意味で使用される。」とある。本来の意味が、アメリカ人を指すというところが微妙だ。

「世界が土曜の夜の夢なら」斎藤環(角川書店)
日本文化は、ハードで保守的な「深層」と流動的な「表層」の二重構造をもっている。日本人はあらゆる外来文化をまず表層で受け止め、その影響を吸収しながら表層を変化させる。そしてこの受容的な表層が、外来文化からその奥にある深層を守るべく機能する。こうして日本文化の深層は変わらずに守られてきた。というのが、丸山眞男の「古層論」である。これを著者は「構造」と「形態」に分け、日本文化の雑食性を説明する。つまり、変化する表層と不変の深層というよりは、形態の流動性と構造の同一性という対比の方が、今の日本を説明しやすいのだと言う。変わりつつ変わらない、変わらないために変化を続ける、という思考は、福岡伸一の「動的平衡」にも繋がりそうだ。生きる根本は同じなのだろうか。

ウィキペディアには「クラシックヤンキー」から「ヒップホップヤンキー」への経緯なども書かれている。ここには確かにアメリカの影響もあり、その流れを受けて表層を変化させ続けたヤンキースタイルが見える。しかし、著者はその外見ではなく、その内面(精神)に注目する。ヤンキー精神が、日本古来のそれといかに近いものであるかが分析される。ただこの場合「ツヨメでチャラくてオラオラで」というあの感じより も、いかに本宮ひろ志の漫画に出てきそうか、という「気合いの入り方」で決められる。そういう「個人の美意識 にひそむヤンキー性(気合い)」は皆少なからず持っているのかもしれない。スジを通すとか、義理人情を重んじる、という美しい日本人の在り方は、誰もが信じて疑わない美学だろう。ただ、その思考は「今」しか見ていないと著者は言う。ザックリまとめてしまうと、彼らの持つ美学や気合いは、生き方のスタイルに固執するあまり、ゴールが見えない。成功したヤンキー達は「夢を諦めるな、気合いだ」と叫ぶが、その夢はあまりに抽象的すぎる。評価基準がその所属団体内での共通理念だけでは、次の進化に繋がらない。必要なものは「新しい理念」であり、過去のイカした前例ではない。ということになる。

冒頭のギャルとオタクの話に戻る。ギャルが年齢と「経験」を重ね、いつしかヤンキーになり、子供が出来き、気合いで世の中を乗り切る時、オタク達は、ひたすら年齢と「知識」をため続ける。そしてその知識はいつしか外へ向けて溢れ出す。足りないものは、お互いの経験と知識であろう。世の中は様々なバランスで成り立っている。そういえば「ギャルオタ」という言葉もあった。それは繋がるべくして繋がった、ひとつの進化なのだろうか。
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女性が鎧を纏って強くなった時

02 02, 2013
澤田知子と志賀理江子の展示を観た。
二人の作品には何の共通点もないが、同じ建物内で連続して接したことで、妙に比較することになった。澤田は77年に生まれ、04年に木村伊兵衛賞を受賞し、主にセルフポートレイトの手法を用いた作品を発表している。対して志賀は、80年に生まれ、08年に木村伊兵衛賞を受賞しており、作風は撮影したプリントを加工し、それを再び撮影してイメージを具現化していく幻想的な作品で知られている。実力充分な二人である。
澤田の作品にはほとんど澤田本人が登場する。自分を化粧、衣装で変身させ、その分人のようなそれぞれの自分を均一に並べる。個性的なキャラクターを生かした正統派な現代アートである。対して志賀の作品は、どれも実に生々しい。子供がみたら怯えるような、ダークサイド的世界観に満たされている。僕は、この二人の作家を特に注目しているわけではないが、様々な企画展にこの二人はよく登場するので、たびたび目にする。そして、いつも何かを過剰に暴走させていく印象を受ける。今回もそれは留まる気配がない。

「DOMANI・明日展 2013」澤田知子他「ARTIST FILE 2013」志賀理江子他(国立新美術館)
以前の澤田は作品の中で、設定人物にあわせた表情を演技していたと思うが、最近は外見だけを変えてはいるものの、その差はますます微妙なものになり「何か文句ありますか」という挑むような深刻な表情は、気味が悪い。それを均一で整然とした空間で連続して見ていくことが、澤田作品を観る体験といえる。以前、タナカノリユキが沢尻エリカをモデルにして、100人の沢尻を作り一同に並べる作品を発表していたが、作者とモデルの着せ替え遊戯を見せられただけで、なんの毒もなくサラサラしていた。やはり、澤田の独特なキャラが放つ「ヤバさ」こそが、澤田作品を支えている肝なのだろう。
ただ、今回の展示には新たな展開があった。ある商品がウォーホルのキャンベルスープのごとくズラりと並んでいる。きっちりくっきり撮影されたその製品が整然と並ぶ様は、爽快な空気に満ちていて、その迷いのない美しさに目を奪われた。パッケージデザインに使用されている言語だけが際立ち「差異」という意味を改めて考えることができた。「この人はこういう作品だろう」という予想を裏切られる快感は、作者の進化を思わせるに充分だった。

続けて、別フロアにあった別の企画展で志賀作品を観た。この人は、写真を沢田のようにきっちり展示しない。僕はその展示手法にあまり共感したことがなく、なぜこのような見せ方になるのか常々疑問だった。もちろん今回も普通ではない。しかし、その新しい見せ方は実に衝撃的で、ようやく志賀世界の一端が理解できた。そのイメージにダイブするような空間に踏み込んだ人は皆戸惑っていたが「展示とはこういうものだ」という既成フレームを見事にぶち壊しており、やられた感が喜びに変わる経験がそこにはあった。少々のほころびなど彼女にとっては、大した問題ではないのだろう。その心意気が素晴らしいと思った。
僕はデザインを勉強してしまった男だからか「女性のアバウトさ」が時々気になるのだが、細かな体裁を整えて喜ぶのは男の悪い癖だ。その企画展には男性作家もいたが、そのメランコリックな優しさと共にあるスッキリした作品群が悪いわけではないが、あの志賀作品は僕にとって重要な体験になった。
何故そう過剰反応したのかには理由がある。以前読んだ澤田の「産業、社会と領域について」というテキストに僕が共感してしまったからで、以下はその要約。

「これまで現代における政治は、発展、向上、そして拡大を掲げてきた。しかし、実際に産業、社会と領域が造り出したものは分離、憂鬱、そして破壊であった。そしてまたアイデンティティの喪失という問題も生み出した。そのような世の中で女性は生きていく為に鎧を着て戦うことになった。もともと鎧は戦うための装備と同時に、その装飾の違いによって、権威や権力を示すものでもあった。女性が鎧を纏うことは、産業を発達させて様々な意味、分野において領域を広げ、社会向上を掲げて進んできた先進国の象徴とも言える。陰陽のバランスを保ちながら成り立っているこの世の全ては繋がり影響しあっている。女性が鎧を纏って強くなった時、同時に男性が弱くなることはバランスをとるために当然起こることが想像できる。
女性が自分や愛する人のために着飾ることは大地に花が咲くのと同じことだと思う。しかし女性が鎧を纏って男性的になり、母なる女性が女性性を失っていくことは、私達が母なる大地である自然、そして地球をも奪ったことにある。そこから全ての問題が生まれてきたとも考えられる。しかしこの世の全ては表と裏、男と女、というように陰陽の関係によってバランスを保っている。だから必ず問題と見えることにも裏の面があり、その問題に気づくことが重要で、気がついたらそれを修正することもできる。」

澤田の展示は3日までだが、志賀の作品はまだ観れる。あの衝撃は写真集では絶対に分からない。一見の価値があると思う。
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画像:http://www.gmprojects.jp/projects/20121107/
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画像:http://5election.com/2010/12/28/tomoko-sawada-澤田知子/
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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