自転車のカゴ

12 28, 2012
朝、娘を自転車の前カゴ(椅子)に乗っけて保育園に行くのだが、これもあと3ヶ月で終わると思うと感慨深い。きっと前カゴに乗っけること自体、体重の問題で危険なことなのだが、だましだましの日々を過ごす内に最後までいけるのではないかと思えるようになり、そろそろその最後が近づいてきた。たぶん、小学校に通うようになったら、窮屈だし格好悪いし、もう前カゴには乗ってくれないだろう。このくるんと丸まった背中は、前カゴに乗っている時特有の光景で、それ以外ではこの背中を見ることは出来ない。たいてい歌を歌っているのだが、子供の歌はどれも素直に人生を肯定するものばかりで、最近の切れるような寒い朝も、うだるような夏の直射日光も、雨をよける傘の中でも、その歌を聞き背中を見ていると、色々あるがとにかく前に進もうと思えた。

乗っている自転車は、娘が生まれた直後に買った無印良品のもので、もう鍵を付けたまま放置しても絶対盗まれない程にボロくなった。1歳を過ぎた頃から前カゴに乗せ始めたと記憶しているが、当初は本当に小さく、乗せるではなく「入れる」感じだった。「入れる」とすぐ寝てしまうし軽いし運転も楽だった。そのうち、ちょこまか動き回ることを覚え、カゴの中で様々な体勢をとり存在アピールを繰り返すので、実に危なく運転には細心の注意が必要になった。4歳を過ぎると、それなりに身体も大きくなり、結果体勢を変えることが不可能になり、気の毒だが前カゴにずぼっとハマったままで耐えるだけの状態になった。その頃からか意識を紛らわせるためかどうかわからないが、ただ前を見て歌うようになった。うちの家族は、車に乗る習慣がないので、移動手段はかなりの距離までこの自転車だった。

約5年間、これに乗って色んなところへ行ったが、4月からはその前カゴに乗っかるのが普通の鞄とかになるのかと思うと、最近の朝が随分貴重に思えてきた。まだ小さい頃、家にいてもつまらないだろうと思い、ただなんとなく近所をぐるぐる回るべく、カゴに乗っけるだけで娘は喜んでくれたが、今そんなことをしたら文句噴出であろう。以前の僕は、SPECIALIZEDのSIRRUSという無駄に格好いい自転車に乗っており、それなりに颯爽と風を切っていたつりだったが、もうだいぶご無沙汰である。たまに乗るとスピードが出過ぎて怖いくらいだ。ママチャリならではの緩いスピード感が、自分にとってしっくりくる速度になってしまった。

なぜこんなことを書いているのか。それは電車を利用する時に自転車置き場に自転車を置くわけだが、いつも回数券でその料金を払っていた。しかし随分前から目をつけていた定期契約者専用の自転車置き場があり、すごくストレスがなさそうで、先日ついにその場所を確保した。契約期間が1,3,6ヶ月とあり、もちろん6ヶ月が一番得することになっていて、思考停止のまま6ヶ月にして早速もらったシールをボロ無印自転車に貼ったのだが、よく考えてみると娘は小学校に行くわけで、4月からこの自転車に乗る必要はもうないのだった。契約は3ヶ月にすべきだったと思いつつも、自分を納得させる理由を色々を考えていたら、最初に書いたこと等が思い出され、まあこの契約期間が切れる6月までは、前カゴに娘がいないこの自転車に乗って、親の勝手な思い出に浸ろうと思うのだった。
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作品との出会い

12 27, 2012
稀に、自分と同じ感覚をこの作家は持っているのではないか、としか思えないような作品と出会うことがある。それは有名無名関係なく突然訪れる。そういう出会いは、もうひとりの自分とバッタリ出くわすようなもので、深く理解し合っている他者との関係以上に生々しく、さらに爽快というわけでもないが、これ以上の刺激は今のところなく、そういう会合を求めて僕はギャラリーや美術館を彷徨っている、と言っても過言ではない。これは、人生を賭けてもいいと思った「作品」と出会ってしまった2人の話。

「楽園のカンヴァス」原田マハ(新潮社)
画家と作品の関係は、当事者である本人以外知り得ない。本書は、アンリ・ルソーの代表作「夢」と酷似した作品の真贋を巡って、幼少の頃より彼の作品を愛し研究してきた2人の男女の戦いと、その麗しい交流が描かれる。徹頭徹尾のルソーオタク同士が、ここぞとばかりの知識をぶつけ合い、どちらがよりルソーを深く理解しているのかを勝負する。歴史的な価値付けが曖昧だったルソーに対し、丁寧な視線を向けてきた2人である。しかもそれぞれ個人的な事情も抱えており、負けるわけにはいかないのだった。物語にはお約束な謎の伝説的コレクターや秘蔵資料等も登場し、ハリウッド映画のようで、ベストセラーになったことも頷ける。

装丁は「夢」がそのまま印刷されている。そして読前と読後では、その見え方が劇的に違ってくる。ぐっと鮮やかに迫って来る。それは結構新鮮でうれしい感覚だ。
説明不要で衝撃を受ける作品がある一方、作家の事情や完成への物語といった知識が、作品と自分を繋ぐ入り口になることもある。個展をしたのに、ギャラリーがその場所を記さない案内を作ったために、誰も観に来てくれなかったという、本当だったら間違いなくトラウマになるであろう人生を歩んだルソーだが、これからは、そんなエピソードだけではなく、素直な刺激を受けつつ彼の作品を観ることができそうだ。そう思えただけでも読んだ価値があった。
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画像:http://artmeigakan.blog90.fc2.com/blog-entry-50.html
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驚喜乱舞。

12 24, 2012
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おばあちゃんからランドセルが届く。
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スナップショット

12 15, 2012
ある場所を限定的に撮影していて、かなりの枚数がたまっているのだが、まだ足りないであろうことはわかっている。それは、ようやく自分の関心がどこにあるのか、それなりに明確になってきたからだ。つまり、あえて何に焦点を合わせるのかを保留にしたまま、僕は撮影を続けていたのだが、ここ最近は同じような写真ばかりを量産する状態になってしまった。しかもそれは、今まであえて避けてきた分野で、そこに足を踏み入れるとやっかいな問題が立ち上がることがもうわかっている。それはつまり「人の顔」である。

街のスナップ写真に人が写っていてその誰かが限定できる場合、その写真を発表していいのかという問題は、多数の本が出版され、写真に関わる人にとっては大きな案件らしい。もちろんその被写体となったご本人から許可を取れていれば苦労はないが、実際それはほとんど不可能であり、だからこそ皆が頭を抱えているのであろう。特にここ最近は「肖像権」という言葉がひとり歩きしてしまい、変なトラブルに巻き込まれないために、後ろ姿にしておくとか、顔を切るトリミングにしたりすることが多い。もちろん群衆的な状態だったり、明らかにパフォーマンスをしているような人であれば問題はないのだろうが、いわゆる道を普通に歩いている誰かひとりを狙うようなスナップは、きっと一番その問題にひっかかりやすい状況にある。

スナップではないが、最近流行っているライアン・マッギンレーの作品※1に写っている人達は、彼の友人や仲間達らしいのだが、あのヌードや奔放な軽やかさは、その独特な連帯感ゆえ表現できるのだろう、見知らぬ他人や雇ったモデルではああはならない。では僕はどうすればよいか。もちろん友人等を集めてさも他人のように歩いてもらい、演出的にその光景を撮るという方法もあるが、明らかにそれはリアルではないし僕自身もそうする気はない。過去、ロベール・ドアノーの「kiss」※2など、そういう偶然のスナップと思われていたものが、実は忠実な演出だった、という例もある。これが偶然か演出かで、その感動は雲泥の差になる。そして今こういうカップルがいたとして「写真撮っていいですか?」と聞くことが、どれだけ不自然で不可能かということだ。

「撮る自由」丹野章(本の泉社)には、大胆にも「見えるものは撮ってもいい」と書かれている。もちろん、撮影禁止と明確にうたわれている場合や、一般的な常識の範囲内での話ではあるが、いわゆる公共の場で行き交う人々は、充分他者に見られてもよい格好をしているわけで、無許可で撮影されてもそれほど困らないのではないか、というのが著者の意見であった。この「パブリックスペースは撮影可で、プライベートスペースでの撮影は不可」という考え方は非常に分かりやすい。しかし、これはあくまで撮影までの話であって、それを公表するとなると、問題はそう簡単ではない。そこを歩いていることが知られることで、被害が及ぶ人がいないとは限らない、細心の注意が必要である。といういつものグレーゾーンに入ってしまう。
そんな中、フリップ・ロルカ・デコルシアが「HEADS」※3という作品を作って発表し、訴えられている。細かい作品の制作方法は書かないが、とにかく道行く人の顔が無許可で撮影され、とことんアップで大判プリントされている。これを肖像権の侵害として告訴した宝石商がいたらしいが、結果はアメリカ憲法修正第1条「表現の自由」を申し立てたデコルシア側の勝利だったようだ。この作品に関しては見るたびに「いいのか?」と思っていただけに知ることができてよかった。

言葉での考察も必要だが、あの作品はどうだったのかという事実があると力強い。「横木安良夫流スナップショット」横木安良夫(えい文庫)に詳しい。この本は、実際、問題になりそうな著者のスナップ写真が相当数載っているので、とても参考になった。上記した「kiss」の裏話も載っている。さらに著者は熱く読者を煽る。物議を醸し出すことを恐れてはならない。全てを受け止める覚悟で、告訴されたら受けて立てばいい、そして負けてもスナップ写真をやめる必要はない。もし本当にそれが正しい表現だと思うなら、また続ければいい、と続く。またスナップ写真が、いかに写真史の中で重要な位置にあったか、過去の巨匠達がいかに工夫して被写体に気づかれないよう、スナップを繰り返してきたかを列挙してくれる。無許可のスナップショットを何故してよいのか「それはスナップショットを実践した偉大な先人たちが、写真の歴史を作ってきたからだ」と著者は答える。

そこに被写体を陥れようという悪意がなければ、その肖像本人にとって、社会生活の上で我慢できる限度を超えていなければ、街を通り過ぎる素晴らしい人々に不快感を与えないよう、敬意を持って撮影し発表するのは決して問題にはならない、ということになろう。「人」が入ると場所は、急激に力を持ち血が通う、そこには明らかな日常が生まれ、小さいながらもドラマが始まる。誰も写っていない写真の良さはもちろんあるが、そこに誰かが入ることで意味が出る写真もある。そんなことばかり最近は考えている。

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※1画像:http://www.tomiokoyamagallery.com/exhibitions/ryan-mcginley-exhibition-2012/
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※2画像:http://atxfushigi.exblog.jp/17821700/
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※3画像:http://josephcha.blogspot.jp/
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弛緩

12 06, 2012
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よく遊びにくる猫が、実にしまりのない状態になっていた。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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