うつけ

11 27, 2012
自分はそれなりに頑張ってきたと思っていたが、それは影で自分を助けてくれた人がいたからだった。自分の能力や努力なんて、彼の献身的生き方に比べれば、まるでお話にならない。己はただの虚けだった。そういう他者の力をありがたく思い出させてくれる話。

「影法師」百田尚樹(講談社文庫)
「永遠のゼロ」が動揺してしまうくらい面白くて、もう少しこの作家を読もうと思って手に取った。こういう純粋な世界を現代で作るのは厳しかったのだろう、設定が江戸時代であった。今「しかと心得た」とか「お慕い申しておりました」などとは言わないが、当時はきっと不自然ではなかったのだろう。舞台のような台詞が嫌みなくしみ込んできた。そしてこの話は、こういう言葉のやりとりだからこそ成り立つように思った。

この作家特有の癖なのかもしれないが、実在するにはほど遠い理想的な人格者が物語に出てくる。その見事な行為の連続に慣れてくると、自分はいかに俗物であるか、世の中はどうしてこうもダレてしまったのかとか、余計なことを考えてしまうのだが、たぶん著者はそういう輝度の高い人を描きたいのだ。調べてみると「探偵!ナイトスクープ」の放送作家を長く続けていたらしい。この番組に意識を奪われた人は多そうなので、人の心を掴むのが上手なのだろう。読み途中が実に楽しいのだった。
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あえて今まで通りのやり方で

11 25, 2012
1995年に学校を卒業した僕は、会社の仕事に納得できず、なんとか美術をやっていく方法はないかと悩んでいて、そこで注目したのが「スタジオ食堂」だった。メンバーが、中山ダイスケや中村哲也とかで、彼らはその仕事場兼、ギャラリーでもあるスタジオを基点に、実にスタイリシュにアートを展開していた。特に中山ダイスケはギンギンに尖っていて、外見も作品も触れば手が切れそうであった。一度どうしてもその「食堂」に行ってみたくて、何かの催しに参加し訪れたのだが、その時スタジオを案内してくれたのが、メンバーでもある須田氏だった。
以来、素直にファンになり、機会があればかなり遠い丸亀とかまで足を運び、彼の作品を定期的に見続けることになる。そして、その変わらない作風と進化する技術と展示手法に、変わらない感動をもらい続けている。

「須田悦弘 展」須田悦弘(千葉市美術館)
「僕はデザイナーになれなかった、というコンプレックスがあるんです」と当時スタジオ食堂で語っていた須田氏の言葉は今でも鮮明に覚えている。彼は1年で日本デザインセンターをやめたらしいのだが、あそこは入るだけでも相当な難関だと思うので、彼のデザイン力を僕は知らないけれど、かなりのものなのだろう。そしてそれは、空間を自在に操る展示手法に、明らかに生かされており、今回の江戸絵画や版画を見せる展示に結実している。
映画「利休」に多大な影響を受けたらしく、最近初めてその映画を僕も見たのだが、初期の「銀座雑草論」などは、思えばそのまま黄金の茶室であった。その後の展開にしろ、花の置き方、花びらの飛ばし方等、確かにその影響が隠せないが、思えば茶の湯の芸術性は日本の美学の最たるものであり、そこにデザインの力なり、木彫の技術を込めた彼の戦略は、現代アートの中でこそ花開いたのだろう。新作と思われる一畳ほどの漆黒空間に、芙蓉が展示されていたが、腰をかがめてその場所に入る感じなど、見事に茶室のそれであり、そしてそこで対峙する花との世界は、ここまで来た労力が報われるような一瞬を堪能できた。漆の黒に囲まれる体験は、怪しい程に妖艶で、そこにある花も芙蓉でなければならないのだろう。そういう深読みもまた楽しい。

今回6歳の娘も連れて行った。ダークな展示空間に、当初は怖さを隠せなかったようだが、そこに展示されている花々を見ると、怖さが好奇心に切り替わったのか、積極的に作品を鑑賞していた。先ほどの漆黒空間にも挑戦し、ひとりでその芙蓉と静かに向かい合っていた。
そして、相変わらずどこに作品があるのかわからない展示は、子供心をときめかせるのに充分な魅力が満載だった。大人では見つけられないその場所を、子供はすばやく感じ取れるようで、美術館であんなに笑顔を見せてくれると、素直に連れて来てよかったと思う。何も無いと思われた空間に極小の雑草を見つけることで、何かが在る部屋に切り替わり、作品鑑賞が宝探しにシフトする。その予感を孕む視界の変化は、確かに楽しい。

驚くほど美しく製本されたそのカタログを読むと、今回の個展に際し、美術館側からは「今までとは違った新しい試みを」という要請があったらしいのだが、須田氏はそれを断り「あえて今まで通りのやり方で」ということにこだわったようだ。引き出しの数はアーティストにとって豊富な方が有利という話はよく聞くが、そうではなくひとつの世界を突き詰めることで、切り開かれる世界の深化もあろう。その変わらない姿勢で、また次の作品に向かって欲しいと思う。甘露な体験だった。
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画像:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2012/1030/1030.html
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弱さを隠す

11 19, 2012
AとBどちらが良いか、という問いに対して、自分だけは確固たる信念でもってその差がわかる、他人の意見はどうでもいい、と考えられる人が時々いる。しかし今、そういう優劣の指針を個人に委ねることは稀であって、多くは集合知とか調査等の複数の目で判断されることが最近の流れだと言える。実際、制作作業よりも調査検証を優先するクライアントのスケジューリングに、急かされる人は多いのではなかろうか。

「利休にたずねよ」山本兼一(PHP文芸文庫)
美意識でもって、怒れる他者をゆるりと酔わせていく茶の湯シーンが、実に気持ちよい。太陽と北風の上着脱がせ競争そのままなのだが、他者を圧倒するのではなく、ゆっくり客人を驚かせつつ、静かに心をくるんでしまう利休マジックは、誰もが味わってみたいと思うのではなかろうか。しかし、その神秘が度を超えてしまうと、それは他者の恐れを招く。美しいとはこういうことだ、という価値観は、やはり個人の一存ではなく様々な方向で存在すべきだ。本書でその美意識に翻弄されるのは秀吉だけではない、利休の妻である宗恩も夫の理想に添えるよう細心の注意で日々心を砕いている。そしてそういう日常は結構しんどいと思われる。利休は決して価値観を強制しているわけではないが、自分だけの信念でもって動いている人は、自然と他者へ圧力をかけてしまうもので、同行者にとってはやっかいな問題なのである。今の時代が調査結果に頼るようになったのも、そういう独裁者の一存からの逃避なのかもしれない。
所詮、人間は美に翻弄されるもので、手なずけようとしてはいけないのだろう。それは利休をもってしても無謀だったということだ。今の現代美術を見てもそれはよくわかる。どうにかなる問題ではない、ただそこで議論したいとか狂ってみたいと思わせる吸引力が、確かに美にはあって、人間はそこに引き込まれてしまうようなのだ。ヤバいなあとは思いつつも、ある時自分が目指していた何かが偶然結実し、その美を垣間見た時、ようやく苦労が報われたという幸せに満たされるが、もちろんそれは幻以外の何ものでもない。しかし、その勘違い的一瞬は、間違いなく日常を破る躍動感に満ちた時間だったりする。これは、誰かに楽しませてもらうというディズニーランド体験のような時間とは全く異なり、一個人として隔絶された絶対的歓喜に近く、その魅惑は明らかに人を冷静さから遠ざけるものだ。

作品を作るということは、その魅惑体験を味わいたいというよこしまな野望とセットであって、几帳面に事務作業をこなすような行為とは明らかに異なる。宝石を見つけるべく必死に穴を掘る人間の心理に近いかもしれない。つまり、そんなに高貴なものではない。でも思う。これが完成したら、どういうことになるのか、そこで味わえる(かもしれない)新たな体験以上に刺激的な時間などあるのかと。本書で利休は言う「人はだれしも毒をもっておりましょう。毒あればこそ生きる力も湧いてくるのではありますまいか」「肝要なのは、毒をいかに志にまで高めるかではありますまいか。高きをめざして貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばいかがでございましょう」
利休の鋭利な感覚に、多くの人が驚愕し同時に不気味に思う。その怨念とも言える美に対する焔の謎が終盤明かされる。そこには、腹を切るという行為を受け入れた心理が、無理なく納得できる。事実かどうか知らないけれど、彼のこだわりの秘密を知る時、美に象徴される文化という大義名分は、案外些細な非常に個人的な問題を、他者が勝手にすり替えただけなのかもしれない。美に対する執着心など、絶対にどこか歪んでいないと持てるものではない。それは自分の弱さを隠すためであることが多い。決して自分の強さを誇示するためではない。脆弱な自分をなんとか屹立させるために編み出した、必死な手段こそが「作品」なのかもしれないと、本書を読み思うのだった。
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死者との継続時間

11 13, 2012
亡くなった人との関係をいつまでも大切にしたいという思いは、得てして現実離れする行動に繋がる。これは、父親の持ち物から偶然鍵を見つけた少年が、その鍵を差し込むべく存在するであろう穴を探し求める話。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」監督 S・ダルドリー(2011年アメリカ)
唐突に肉親を失う衝撃は、味わった者にしかわからないだろう。もう父はいない、という事実はそうそう受け入れられるものではない。特に本作のように、父親との交流が最も楽しい時間として機能している少年にとって、その現実は残酷以外の何ものでもない。少年は亡き父との時間を継続すべく、遺品から見つけた鍵を自分へのメッセージと受け止め、生前何度もやった謎解きゲームのごとく「鍵穴」を探し続ける。

以前、余命4ヶ月と宣告された6歳の少女が、両親への愛を死後も伝えようと、家中に何百通も絵手紙を隠していた、という実話があった。悲劇のどん底であろう両親が、亡き娘からのラブレターを日常生活の中で、偶然見つけるシーンを思うと、とても言葉にできるものではないが、その手紙を見つけるたびに親は、娘との時間の継続を意識するだろう。しかし、厳しいとは思うけれど、そういう時間はいつか途切れる。死者との関わりを、いつまでも続けているわけにはいかない。生きている者は、生きた現実に向き合わねばならない。

この映画では、少年の鍵がどこにはまるのかが解かれた時、死者との継続時間も終わり、そこには酷な結果が待っている。しかしこの経験を経て、再び少年が現実に向き合うその時、ある救いは訪れる。終盤に、この少年の母親も、実は鍵穴探しをする息子の行動を必死に予想し、先回りしていた事実が明かされる。それはとても感動的なのだが、夫を失った妻も息子を通して、死者との継続時間をそこで過ごしていたのだろう。大切な家族を失いつつも、これからも生活を続ける糧として、この鍵をめぐる亡き父親との交流が、2人の中ではどうしても必要だったということか。
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http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19777/gallery/p004.html
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ロウソクの光2

11 10, 2012
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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