sea bear 2

10 18, 2012
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sea bear 1

10 17, 2012
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個人と分人

10 16, 2012
平野啓一郎によると「個人」は人間を示す最小単位ではないようだ。「個人」は明治時代に入ってきた、もうそれ以上分けられないという意味のindividualを和訳したものでしかなく、その単語:individualのinを外したdividualこそが今考えるべき個人の単位で、和訳するとそれは「分人」ということになるらしい。現代人は、状況によって様々な顔を使い分けているのが普通で、性格や考え方をひとつに限定する「個人」という単位があるおかげで多くの問題が噴出しているが、個人は様々な側面を持つ「分人の集合体」と捉えた方が自然なのではなかろうか、というのが著者の主張である。

「私とは何か『個人から分人へ』」平野啓一郎(講談社現代新書)
個性とか本当の自分という言葉が危うくなっていることは、誰しも感じていることで、自分とは何か、と思う自分が既によくわからない状態にある今、確かにこの考え方を導入すると説明しづらい自身の在り方が明解になる。仕事をしている自分と、子供に接している自分は明らかに異なるし、同様に人への挨拶も、初対面の人と長い付き合いのある人とでは、普通使い分ける。個人の中にある自分は、対応する人が誰かによってアレンジされることが常識であり、誰に対しても俺様的な態度では、他者への圧力をかける非常識な生き方という他ない。つまり、それぞれの場面で出てくる自分は、全て本当の自分であって、仕事をしている自分は、仮面をかぶった偽の自分とかいう考え方自体に無理がある。そこで個人をさらに分け「分人」という単位を採用し、それぞれの状況や対応する人に合わせて、人はその中で待機している「分人」を登場させて生きている、と考えるのはどうかということだ。ただ、これは色んな言い方で今までも議論されてきた。社会に対して複数の関わり方を持つ人は、今時珍しくないし、ネット空間と実生活空間で人格の使い分けを意識している人も多かろう。

本書の興味深い点は、その「分人」とされる人格自体が、自分で操作できるものではなく、他者との関わりの中で自分の意志とは関係なく、自然に生まれるのではないか、というところだ。好きな人と接する時の自分が、いつになく饒舌になったとしたらそれは自分の意識による人格操作ではなく、接している人の力によって導き出された自分の「分人」の姿であり、同様に嫌悪する相手と話す時、妙に感情的になったりするのも、相手に導き出された自分の「分人」の滲みに他ならない。相手からの影響を受けた自分と同様、接している他者も自分からの影響を受けている分人同士だ、という視点を持つと、人間関係の交錯が少しは整理されるかもしれない。

他者と接することで常に変化してしまう自分、と考えると随分不安定な感じだが、それは自分が様々な方向で拡大する可能性を秘めた存在であるともいえる。自分の何かを引き出すのは、半分は自分だが、もう半分は他者だとすれば、行動範囲を広げるリスクの意味がよくわかる。自分を大きく開花させてくれる人が、どこかにいるかもしれないという思いは、分人思考であれば意外に荒唐無稽ではない。ただ、それには必然的に自分自身の行動力が問われることになろう。

本書には「分人」をふまえた、愛の定義もある。愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。なるほど。いじめ問題にも言及している。自分は本質的にいじめられているのだ、などと考えてはいけない。家で心地よく両親と過ごせる時間があれば、それも本当の自分だ。苦しい思いをしている自分が全てではない、足がかりになる自分がいたら、それを大切にすべきだ。「自分はひとつ」という考え方は、非常に生き方を苦しくさせる。ましてや自殺によって、全ての自分(分人)を消してしまうのは得策ではない、と著者は言う。その通りだと思う。
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写真の力

10 12, 2012
実物は見過ごされてしまうような花があったとして、それをある人が撮影して発表し、その花の力に気づいた人が増えた場合、そこには撮影者や写真の力が、花の魅力を引き上げたことに関与していると思う。見過ごされている何かを再発見させる力が、写真には確実にある。しかし、誰もが目を向けずにはいられないような、強烈なパワーを持つ花を撮影し、それを写真の力だというのはどうなのだろうか。

「写真力」篠山紀信(東京オペラシティアートギャラリー)
芸能人を見かけた時「ああやっぱり見られることを商売にしている人は何か違うなあ」と思う。僕は超能力を持っていないが、確かに著名な人を見るとオーラを感じることがある。
展示はのっけから有名人が並ぶ、美空ひばり、三島由紀夫、渥美清、大原麗子、夏目雅子、武満徹、吉永小百合、山口百恵、AKB48、、という感じである。展示リストが配られるが、そこにはサイズやプリント方法などは一切なく、人名と年代だけである。しばらく観ていると、もう写真を観ているというより、名前の確認だけをしていた。そしてそれが判明すると、それ以上何かを考えたいとは思わなくなってしまうのだった。確かにこういう展示をすると集客力があるのだろう。大体この美術館はいつもガラガラなのに、結構人がいた。そういう意味では成功している。しかし、最後のコーナー以外ほとんど印象に残らなかった。
多くの写真家は、その個性が作品に出てしまう。もしくは作品にコンセプトを込める。奇しくも同じ場所で以前、蜷川実花の展示を観たが、カラフルであることビビットであることを、これでもかと強調することで、蜷川色をアピールしていた。芸能人ばっかり撮っているのではないということはよく伝わってきた。しかし、結局人が群がっていたのは、最後の芸能人スナップを羅列したコーナーだった。人は人に弱いということか。少々安易に思うけれど、有名女優をネタに作品を作る作家が多々いる。たぶん客が呼べるのだろう。しかし大抵そういう作品を観て思うことは、女優達の魅力に負けているという感想でしかない。
今回の篠山紀信はそういう意味で、最強ではある。ほとんどの写真は、以前どこかで見た超メジャー級のものばかりだ。もちろん有名人達にのまれている感じはない。しかし、どうしてもこれを写さなければいけなかった、という切実さもあまり感じない。そして、僕などが言ってはいけないのだろうが、芸能人のパワーは素直に感じたけれど、写真そのものに篠山節というべき何かがないように思えた。
ただ、最後のコーナーだけは違った。モノクロの一般人が並んでいる。被災した方々であるらしい。カメラと対峙する老人や子供、若い夫婦が緻密に写されている。そして彼らは実に堂々と立ってこちらを見返してくる。見入ってしまった。配られる展示リストが人名と年代だけだった意味がようやく理解できた。芸能人ばかりでなく、こういう写真をもっと展示してほしかった。中平卓馬と決闘していた頃の写真でもいい。せっかく写真を見るのだ。見たことがない世界を見せて欲しい。もしくは見ていたけれど見えていなかった世界でもいい。過去や既に知れ渡った美を反芻するためではなく、様々な物事に対する未だ発見されていない、見方の創造力を誘発するのが写真ではないのか。そしてそれが「写真力」だと僕は思いたいのだが。

たぶん過剰に反応してしまったのは、このタイトルのせいだろう。しかし英訳タイトルは、なぜか「THE PEOPLE」になっている、そう考えると「写真力」を「人間力」とした方が、まだ素直に観れたかもしれない。
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依存症

10 10, 2012
変調が起こった時点で対処しているのに、その変調を読み違えていた時、状況はさらに悪化して事態はより解決困難になる。自分のどこに問題があったのかを検討し直すことは、対処法のミスを肯定することだが、そういう「負け」は素直に認めるに限る。風邪をひくといつもそう思う。自分は健康だという思い込みは、大抵後悔に繋がることを理解しているつもりなので、いわゆるひき始めに敏感に反応し風邪薬をのんでいるのに、事態が悪化すると実に悔しい。 「問題Aですよ」という顔つきで登場したから、Aとして対応したら、AのふりしたBだった、みたいな感じでいただけない。以前はそういう読み違いがほとんどなく、無難にやりすごして来たのに、ここ最近はミスが目立つ。これが40代なのかと思う。ここ最近のタイプは、のどの痛みから始まり、セキに繋がるものだ。のどの痛みは薬でクリアできるのだが、このむせるようなセキが曲者で引きずることが多く、なかなか縁を断ち切れない。これまでの生き方によるのだろうが、病気(風邪程度の場合)を薬に頼って治す人と、気合いや耐えることで治す人がおり、僕は明らかに前者なのだが、この生き方をしてきた場合、薬があれば特に問題はないが、効く薬がない場合、もしくは見つかっていない場合、とても心細くなる。僕の場合、以前引きずったセキの症状は、病院でもらった薬が効かないという事態になり困った。結局どこの病院で処方してもらった薬も効くことなく、なんとなく治ったのだが、こういう経験をしていると、確かに病院に行く気がしなくなる。妻は病気を気合いで治す、もしくは病気を病気と認めない方法で生き延びて来たタイプで、狂った体調をどう元通りにするかでよく議論になったのだが、病院の薬が効く人と効かない人、もしくは効く症状と効かない症状があることが、今は理解できる。何も好んで気合いで治したいわけではなく、効く薬がない場合は気合いや時間の経過で治すしかないということだ。薬に頼らない「〜家秘伝の治し方」みたいのが昔はいっぱいあったのだろうが、今はどうなのだろうか。これからもっと身体は衰え、原因不明の症状が多々起こるだろう。その時いちいち薬を探し、服用したところで効くとは限らない。身体を鍛えるとかして、自分なりの薬物依存症を改善しておかなくてはと、むせるようなセキをしつつ思うのであった。
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任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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