badminton

04 30, 2012
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小石川植物園

04 29, 2012
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ミステリアス

04 26, 2012
シリーズごとに作風がまるで変わってしまう作家がいるが、その作品を並列することで、今まで見えなかった基盤としての共通点が浮上してくることがある。変わっていたのは、要素としての部分的な問題であり、根底の何かは変わっておらず、シリーズを見直すことでより深くその作家性が理解できるとすれば、それは新しい発見にも繋がる。

「The world turns over」中比良真子(neutron tokyo)
恥ずかしながら名前と作品が一致していなかった。グループ展でも一緒に展示をしたことがあり、以前の個展も観ていたのに、今回の展示がそのシリーズとは違っていたため、全く別の方かと思ってしまった。ポートフォリオを観て「ああこの方だったのか」という、まるで、バラバラに散逸していた記憶のピースが一気にまとまる感覚は、気持ちよいものであった。
人それぞれの見方があるのだろうけれど、僕の感じた中比良さんの作品に共通する要素のひとつは、空間の飛ばし方ではないかと思われた。絵画にしろ写真にしろ、何かしら主役的な要素がそこには存在するが、中比良さんの作品は、その主役的な要素をわざと描かない、隠喩的な何かがあるのではなかろうか。よくミステリー(例えば白夜行)とかで、犯人像が周りの証言から浮き彫りにされていく書き方があるが、描くべき対象をその対象の周囲や痕跡を描くことで表現しているように思われ、それが独特な空間を生み出しているように見受けられた。今まで「夜景の人」とかで認識していた自分の感覚が、いかに表層にとらわれていたのかを、今回の水のシリーズを観て気づかされた。まだまだ中比良さんの真相には程遠いのだろうけれど、作品を観て行く自分なりの指針があると、次が楽しみになる。そしてまた裏切られたいとか思うのだった。

最終日に娘と観に行ったのだが、ご本人もいらして、しゃべりまくる生意気盛りの5歳の意味不明な話にもつきあってくれる器の広い方であった。きっと対象にあわせて、感覚を自在に変形できる人なのかもしれない。型にはまらないとか、定義できないとか、分析できないとか言われたら、それは明らかに作家の勝ちなのだと思う。
以前「私はミステリアスになりたいんです」と公言する後輩がいたが、彼女の少々幼い人格からすると、ミステリアスな女への道は遠そうであった。(たぶんミステリアスな人は、ミステリアスになりたいとは言わない)しかし、最近久しぶりに再会したのだが、年齢を重ね、転勤を経験し、結婚を経ると、以前の幼さは影を潜め、驚く程ミステリアスな女になっていた。気さくに質問してはいけない空気がそこにはあり、見事な変貌を遂げていた。
全然繋がらないのかもしれないが、作風が変わりながらも「変わらない」作家、言い換えれば本性が見えないミステリアスな作家は、確実に魅力的だと思われる。
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「Stars on the ground no.7」 2011年 / 90×146cm / oil on canvas
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「overthere No.6」 (部分) / 2011年 / 970×1300mm / oil on canvas
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「The world turns over No.24」 2011年 / 90×146cm / oil on canvas
画像:neutron tokyo
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娘が大切か、地球の未来が大切か

04 24, 2012
ある日、プリンのことで喧嘩したしんのすけとひまわり。そこに「ひまわり姫をお預かりします」と謎の男達が現れた。ラッキーとばかりに渡された紙にサインするしんのすけ。次の瞬間上空に現れたUFOに野原一家は吸い込まれてしまう。
到着したのは「ヒマワリ星」という見知らぬ星であった。星の王ゴロネスキーが叫ぶ「ひまわり様がいなければ、地球もヒマワリ星も消滅してしまうのだ」と。
急激な展開に呆然とするひろしとみさえだが、しんのすけがサインしたのは、全てを了解するという「宇宙契約書」だった ― 。

以前、子供に見せたくないアニメの代名詞だったクレヨンしんちゃんは、今や大人が感動できる定番ファミリー映画にまで登りつめてしまった。しんのすけのしゃべり方が苛立たしいと感じていた人も、正直慣れてしまったのではなかろうか。もう真似をする子供も少なそうだ。

「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス」を、しんのすけと同い年である娘と観た。家族みんなでひまわりちゃんを取り戻すべく頑張るという話であった。よく、クレヨンしんちゃんの映画は号泣必死と聞いていたので、僕もそうなるのかと構えていたが、そうでもなかった。逆に、劇中で交わされる会話の哲学性に引きつけられた。
「娘が大切か、地球の未来が大切か」と、しんのすけの両親は問われる。両親は答える。「1年先もよくわからないのに、地球の未来なんて私達に分かるわけがない」「ひまわりは私達と一緒でなければならない」等々である。色々と置き換えが可能な問答だし、同じ状況に置かれれば、同意見が多そうだ。誰だって、みんなの将来は大切だが、我が子を犠牲にすることは避けたいはずだ。そこに綺麗ごとは必要ない。

クレヨンしんちゃんをよく知っているわけではないが、あの面白さというのは子供の小生意気な部分やブラックな感覚を面白がるのかと思っていたが、そういう毒的要素はほとんどなく、しかも悪人が出てこない話だった。皆それぞれの役目を遂行すべく行動する、真面目な人ばかりであった。ふざけているのはしんのすけぐらいで、とはいえ彼も妹を取り戻すべく必死ではあった。と考えると、過剰なアレンジ描写で笑ってしまう場面が多かったが、基本的には非常に真っ当な話であった。
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画像:http://shinchan-movie.com/
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前向きと後ろ向き

04 21, 2012
言葉は悪いが、向上心が生み出す尖った野望によくある、人によく見られたいとか格好をつけたいという思いは、大体物事の本質を外してしまう余計な概念のように思う。冷静な視点というのは、入れ込み過ぎた没頭から生まれるのではなく、距離をおいて感情を入れずに周囲と比較しつつ、冷たく突き放す見方ともいえ、そこには明らかに諦念というべき感覚があるのではなかろうか。ポジティブだけでは進めなくなるというか。

「この世の全てを敵に回して」白石一文(小学館)
挑発的な言葉が列挙される。もの凄いネガティブ思考で徹底的に人間の性を暴こうとしている。少々ひいてしまう箇所もあるが、何故か嫌悪感が湧かない。
こういう場所ではそういうことを言わない方が賢明だろう、という状況判断は、空気を読む感覚として現在重宝されているが、著者は冒頭からあえてそこに踏み込んで行く。妻も子供も愛したことなどない。家族ほど煩わしいものはない等々、戸惑わんばかりの言葉が列挙される。しかし、その主張を読むことを止められないのは何故なのか。その理由が知りたくなり、結局最後まで読んでしまった。
ある程度生きてくると、大抵何かに躓く。こうではなかった、人生とはうまくいかないものだと思う。そこで普通は、手に届く範囲の快楽で自分をごまかす。楽しいことは他にもあるし、と自分を慰める。しかし、著者はそこで踏み止まる。そして、誰もが必ず行き着く「死」と向き合う。人間は確実に死ぬ。それはどんな偉大な聖者であれ支配者であれ成功者であれ、変わらない真実なのだ。過去において様々な奇跡があったかもしれない、しかしそのどれもがとるに足らないものだ、なぜなら最高の奇跡は「不死」なのだから、と著者は言う。もし人間が死なない存在になったら「私」という概念が消滅するのではなかろうか、もっと言えば現在起こっている問題の多くは消えるのではないか、何故ならほとんどの問題は、自分が死にたくないという欲、「私」が消えることへの恐れに収束されるのだから、逆に自分が不死になり、そのまま何億年も生きることになったら、「私」の維持に困り果て、切実に死を望むようになるのではないのか、この矛盾は何なのか、著者は思考を続ける。反発しきれない態度は、つまりは共感しているのかもしれず、珍しい読書体験となった。

大抵調子がいい時には、周囲を観ていない。うまく物事が進まない時こそ、視線は素朴な美に反応する。前向きであることを常に求められる風潮の中、あえて空気を乱すことで、クリアであるとされている視界に潜む霧を振り払い、本当の光景を観るべきだ、と著者は考えているのだろう。無視できない真摯な考え方のひとつだと思った。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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