記憶喪失

03 29, 2012
HPを久しぶりに更新しようと思い、Flashを開いたのだが、あまりにご無沙汰だったため、使い方を完全に忘れている自分がいた。確かに自分で作ったデータなのだが、どうやって作ったのか全くもって思い出せない。僕のHPは本当にシンプルなので、Flashとはいえ大した作業をしたわけがなく、強引に勘でいじってみるのだが、まるで言う事を聞いてくれず、知らんぷりされている感じだ。お互い随分関わっていなかったな、という距離感が明らかになる。ズレた例かもしれないが、以前イラストレーター5.0Jという時代に8.0Jが登場し、みんなブツブツ言いながら8.0Jにシフトしたのだが、始めのうちはショートカットが違う等々文句をたれていたくせに、数日で8.0Jの操作に大抵の人が慣れてしまい、その上冷酷にも、お世話になった5.0Jの使い方を同時に忘れたのだった。久しぶりに5.0Jに触れた時、もう関係が完全に冷えきっている事実に気付いた人は僕だけではないはずだ。あんなに連日触り続けていた記憶がこつ然と消えたのだ。それなりの衝撃を受けた。忘れるとはこういうことかと思った。で、今回Flashとの関係を再構築するため、手引き書を見つつ操作し直したのだが、思い出してくる感覚が予想以上に快感だった。「もう振り向かないはずの君が笑顔を見せてくれた」的喜びがそこにはあるのだった。ひとつ記憶が復活するとシナプスが繋がるのか、次々に用語を思い出し以前の関係を取り戻せた。記憶喪失になったことはないけれど、たぶん記憶が蘇る瞬間とは、あのような感覚なのではないかと勝手に予想し、なんだか得した気分になった。

というわけで、微妙にHPを更新しました。「WORKS」の「SILENT DRIFT」に2月のneuton tokyoで展示した作品をいくつか追加しました。どうぞよろしく。
http://shinichitoda.com/index.html
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無表情な少女

03 28, 2012
様々な広告や雑誌に登場する女性達は、大抵ありえないくらい美人ばかりだ。巧妙なライティングで撮影され、念入りに修正を施された商品イメージとしてのモデル達は、見事に嘘を本物っぽくまとわされ、髪をなびかせ笑っている。いわゆる多数決で一番票が取れる「美」がこういう世界なのだろう。謎はどこにもなく、わかりやすさだけがそこにある。

「Dogs and Girls」ヘレン・ファン・ミーネ(ギャラリー小柳)
ヘレン・ファン・ミーネの写真に登場する女性達は、誰も笑っていないどころか、逆に無表情で美人でもない。中には異常に太った少女もいて、その張り裂けんばかりの肉の盛り上がりに少々たじろぐほどだ。しかし、この絵のような世界観は何か、足を止めずにいられない力は何か、といつも彼女の作品を観るたびに思う。プリントも小さい。しかし、この大きさを無関係にする静寂で厳かな世界は他に類を観ない。
被写体は少女が多い。しかし、よくある制服や体のパーツをアイコン化し、男性目線の妄想系少女趣味を助長するような写真群とはレベルが違う。少女を記号化せずに、個人それぞれが持つ雰囲気と、撮影者の意図を絶妙に絡めたその作品は、切られそうな危険といってもいい純粋さに満ちている。どういう場所で撮られたのかはわからないが、非常にひんやりとした空気を感じる。大人でも子供でもない微妙な年代の持つ危うさが、極端に薄いグラスのような硬質感と透明度で迫ってくる。今月31日まで。
364Eugeniahairband2010.jpg
画像:Just another WordPress.com site
hellen+van+meene.jpg
画像:http://modernleaper.blogspot.jp/2010/09/hellen-van-meene.html
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苦労

03 26, 2012
個展の搬入出は今まで全て自分でやってきた。今回初めて人に託しての展示になる。完成を観ることなく、展示が始まるのは妙な気分だ。搬入とはそれなりに気を使う作業だし疲れるものだが、自分の作品を最も客観的に観る絶好の機会でもある。インストールし終わる時の快感もなかなか良い。今回は搬入出の苦労はないけれど、そういった喜びも味わえないわけだ。ひとつ楽をすればひとつ何かを失う。
展示に際しての指示書を入れたが、解読してもらえるだろうか、作品は傷つくことなく届いただろうか等々、気になることが多々あるが、任せる時はこっちがそわそわしても仕方ないのだ。ギャラリースタッフの皆様、お手数おかけしますが、どうぞよろしくお願い致します。
会期中1~2回程しか観に行けないと思うけれど、自分以外の方にセッティングされた、自身の個展空間を味わう経験は初めてなので、どういう感覚になるのか今から楽しみではある。たぶん予想していることとは別の感情を得られるだろうとは思う。もしかすると今まで以上に、客観的視点で作品を体感できるかもしれない。 それにしても、始まるのだという実感がどうも遠い。
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Sardine

03 25, 2012
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本物

03 23, 2012
瀝青ウラン鉱の中からラジウムを発見したキュリー夫人は、そのわずかな光を見つけるため、思い込みに左右されない眼の力(純粋さ)を保つ必要があったらしい。そのキュリー夫人に憧れ「眼を洗う」と称して「絵を描く前に、夜空の星を見て眼の訓練をした」という彼の言葉に僕はやられ、それから彼の言葉は、どれも僕にとって重要になった。「強烈なコンセプトがあれば、必ず手はついてくる」とか「キャンバスは絵の完成と同時に立ち上がらなければならない」などは、作品の在り方として至極まっとうに思えた。以前、近代美術館でのアーティストトークで「絵はもっと自由でいい」「光の中に飛び込む」「僕は生きている光を相手にしている」等々、かなりドリーミーな言葉を彼は言い放っていたが、もう何でも響いてきた。最近は、自己アピールが上手な作家スタイルが流行っているが、彼ほどその言葉が似合わない人もいないだろう。とにかく僕にとって、現存する芸術家の中で最も信頼している人は彼であり、その思いは今も変わらない。そこには明らかな「本物」があると思う。

「LOVE もっとひどい絵を!美しい絵 愛を口にする以上 2012, spring」 小林正人
(シュウゴアーツ)
もう盲目的ファンなので、なんでもありがたがってしまうのかもしれないが、その作品を観ていると、いつも相当な「やっちゃった感」をぶつけられる。僕がちまちま気にしてしまう「完成度」という概念を、この人は徹底的に壊してくれる。彼はさらに美しい絵を描くための呪文として「もっとひどい絵を!」と言うらしいが、その逆説性は制作をする人であれば、誰でも無理なく理解できるものだ。一番の敵は整えようとする心であり、美しい着地点を思わず探ってしまう弱さなのだ。彼の作品が持つ、常に壊しつつも立ち上がってくる絵の強さは、それを作品自体が見事に体現しているからだろう。そこには計算や段取りから解き放たれた、どこまでも純粋な制作行為しかない。自由とはこういうことかと思う。
前回もそうだったが、ここ最近は色が随分変化し、甘いお菓子を思わせるカラーリングになった。女性を描いているからだろうか。以前の「光」から随分変化したように見受けられる。真面目に購入を考えたが、小品は全て完売だった。仕方ない。

「絵の終わりである縁と壁の間には、無限の空間があると思うんです」と彼は語っていた。そこからキャンバスの木枠が解体され、縁と壁の境界が曖昧になり、絵画は枠組みから解放された。その圧倒的な未完成的完成作品を観た時、この人のやっている行為が、どこまでも芸術に対して真摯に思え、その凄さを見せつけられたのだった。作品一発で「本物」は他を圧倒し偽物は吹き飛ばされる。大仰に見せるとか、意味合いとして飾り立てることや、職人的に作品を作るとかではない「純度の高い制作行為とは何か」という厳しい問いを、この人の作品を観ると、いつも突きつけられる。4月21日まで。
kobayashi-1-9761-A-model-of-this-planet-4_exhibition-1.jpg
この星のモデル(画家)#4, 2011, oil, acrylic, canvas, wood, 18×14×4cm / 画像:シュウゴアーツ
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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