DMがまだ残っているので「置かせてもらえませんか」というお願い行脚をすべく、以前お世話になったギャラリーであるTOKI Art spaceとINAXギャラリーへ行った。マメに顔を出していなかったので、いきなり10年間ほどご無沙汰していたトキさんと大橋さんに、一方的なお願いをすることになったのだが、おふたりとも嬉しそうに快諾してくれたのだった。たとえ普段会わなくても、自分を覚えている人がいるという事実は、予想外の支えになる。帰りのカバンが軽かったのは、DMが減ったからではないようだ。
TOKI Art spaceの近所のワタリウム美術館で、重森三玲の展示があり、東福寺方丈庭園があの空間にインスタレーションされていた。かなり無理があるように感じたが、おさまりよく整うよりは、ある程度破綻していた方が、彼の意図と合致するのかもしれない。永遠のモダンは死んでいなかった。イサム・ノグチと交わす会話のビデオが印象的だった。同じ石を扱う人間として、共通する思いが色々あったのだろう。
INAX ギャラリー1の種子のデザイン展が面白かった。様々な種と写真があるだけで、実にささやかな展示なのだが、そこにある種がいっせいに発芽し、鬱蒼と生い茂るシーンを勝手に想像すると、茶色と白の空間が一気に緑に覆われるはずで、種の秘めた力が感じられた。脇山桃子氏のテキストが印象的だった。以下気になった部分の要約。
種子は次の世代への「つなぎ目」と考えられる。その場合、縄文杉のような大樹にとってその「つなぎ目」は一瞬かもしれないが、土の中で休眠状態を保ち、植物体となる機会を待ち続ける種子にとっては、成長し枯れて行くという一生の過程の方が一瞬なのかもしれない。
北極海の氷の中からみつかったルピナスは1万年前の種子で、遺跡発掘でみつかった大賀ハスは2千年前の種子だが、両方とも立派に発芽し花を咲かせた。(種の声より)
1万年の間、命を保存できるシステムに素直に驚く。INAXギャラリーを出ると、人間が大きなビルを作っていたが、これは1万年もつだろうか、たぶん無理だろう。そう考えると、人間の作ったもので1万年持つものがどれだけあるか疑問だ。何かをそのまま保存する、という考えが間違っているのだろう。例えば何か決定的な言葉が、文字であったり音であったりと様々に姿を変えることで、世代を越えて伝わるように、そこには柔軟性が必須であるように思われる。対して、絵画や写真といったものは物理的な存在として劣化が避けられない。そのままの形を保てる作品というのは相当限られるだろう。(石を使ったイサム・ノグチや重森三玲の作品は、ある程度残るかもしれない)
芸術としてメジャーな作品があれば、どこかの美大の片隅に転がる作品もある。どちらに価値があるかは明らかだが、その転がった作品にインスパイアされて、制作に踏み切る人がいたとしたら、その作品は、見事につなぎ目としての役割を担ったことになる。所有という思いを喚起させる作品もあれば、やってみなさいと誰かの背中を押す作品もあるということだ。僕自身、有名無名問わず様々な作品に刺激を受けて今に至る。種子の話ではないけれど、1万年後の人類が描く絵も気にはなるが、自分の作品が、誰かのつなぎ目として機能したら、それ以上の肯定感はないと思う。

大賀ハス(wikipedia)