お好み焼き

01 19, 2012
IMG_4313.jpg
0 CommentsPosted in 写真

イントネーション

01 18, 2012
寒いので室内で遊べるところはないかと探し、池袋のナムコ・ナンジャタウンへ行ってきた。そこの福袋餃子自慢商店街という昔懐かしい昭和が再現された空間の中に、蚊取り大作戦~アマゾンの逆襲~というアトラクションがあり、入ってみた。素焼きのブタに乗ってスプレーガンで、アマゾン蚊という大きな蚊を駆除する遊びだった。ディズニーランドでは絶対に採用されないような、妙な企画ばかりが並ぶ中、このアトラクションはその最たるものであった。アマゾンで発生したという蚊が実にチープで脱力する。単なる射撃ゲームをなぜこのような形にしなければいけなかったのか、僕には何もわからなかったが、順番待ちをしている人達は皆笑顔だった。何故か。アトラクションを説明するバイトさんのしゃべりが実に面白かったのだ。内容ではない、そのしゃべりのイントネーションが絶妙で、笑うしかないのだった。
ナンジャタウンでは「こんにちは」が「ナンジャラ~」なのだが、これが相当イタい。バイトの方々は、羞恥心を捨て「私は恥ずかしくなんかないぞー」という意気込みのもと頑張っているのだが、残念ながらそれは、そのまま伝わってしまうもので、努力は認めるけれど一緒に「ナンジャラ~」と言う気にはなれないのが、正直なこちらの気持ちであった。(小さな子供は素直に言っていたが)
そういった苛烈なアゲインストの中、この蚊取り大作戦~アマゾンの逆襲~を説明するバイトのお姉さんは、見事に羞恥心を自虐的な笑いに変えて、客を喜ばせていた。特徴としては、文節の最初と最後の音を、妙にのばすことがテクニックのようだ。「みぃ~なさぁ~ん、ナァ~ンジャラ~ア」と普通の声量で挨拶を始めたそのバイトさんは、終止このしゃべりを崩さないのだった。最初は猛烈な違和感を感じるものの、全てをこの口調で言われると、退屈な飲食禁止とか手荷物は足下に、とかいうお決まりの台詞が実に新鮮に聞こえるのだ。飛行機内のアナウンスをラップでやって、喝采を浴びる動画 (http://www.youtube.com/watch?v=fD-yyMzF8lI) があったが、こんなに凄くはないが、それに近いかもしれない。バイトさんは自虐的苦笑を混ぜつつ、その特有なしゃべりで客の心を掴んでいった。身長110cm以下の人はそこで遊べない規則で、娘がたぶんアウトだったのだが、低めにラインが設定されていたのだろう、そのバイトさんは「ク~リアで~す」と小声でも自らに課したしゃべりを遂行し、娘をアマゾン蚊退治の旅へ送り出していた。
ディズニーランドで働く人々の素晴らしさがよく取りざたされるが、その頂点と比較してこのナンジャタウンは、料金に差はないものの、非常に厳しい位置にランクしていると思う。しかしそういう場所で、妙なオリジナルのイントネーションを編み出し客を喜ばせている人の存在は、僕にとって強い印象を刻む出来事だった。はっきり言って蚊取り大作戦はつまらなかった。二度とやることはなかろう。しかし、あのイントネーションを聞く事に関しては、リピートしてもいいと思った。
0 CommentsPosted in 生活

物色中

01 17, 2012
IMG_5435.jpg
0 CommentsPosted in 写真

デビュー作

01 13, 2012
コンクリート打ちっぱなしの、いかにもという建物の扉を開けて中に入ると、巨大な黒く焦げたドーナツ型の物体がごろりと置かれている。遠藤利克の仕事だ。タール臭が空間を満たしており、その物質感のリアルな迫力を助長している。穴の奥を見たくなるが、あまりに大きいので、のぞくのがやっとという感じだ。大きいことが何より重要とは思わないが、ここまで大きいとあまりに非日常的で楽しい。以前観たのは、水を木のコンテナのような物に封じ込めるという作品だった。展示物は水ということなのだが、見ているものは木の表面で、どうも馴染めなかった。このタールで黒こげタイプは、THE 遠藤という感じで新規性はないが満腹度は高い。これは彫刻のひとつの到達点という気がする。

この秋山画廊に行く途中に建築専門の書籍店があり、気になったので入ってみた。奥がギャラリーになっており入場料を払って中へ。建物は古いけれど、奥へ進むと新たな空間が見えるという、不思議な広さを備えたギャラリーで高揚感を味わえる。名だたるスター建築家のデビュー作を、その図面と模型から探っていく展示だった。それぞれの模型の作り方があまりにバラバラで、恐ろしいほど個性があった。ねん土でぐちゃっと作られたこぶし大くらいの模型があり、なんのことだが全くわからなかった。これを見せられたクライアントはさぞ戸惑っただろう。ペラペラの紙で四角い枠をバラバラと転がしている病院の模型もあった、見事なラフさであった。安藤忠雄の住吉の長屋もお約束のようにあった。木でキッチリ作られており無駄のなさが際立ち、確固とした意思が見受けられた。
デビュー作というのは、それぞれのスタートラインというべき立ち位置を示しており、種から発芽へのシーンに重なる。そして、ここからどう開花したかは、周知の事実というわけだ。僕は素人なので、できれば同時に最新作の写真もあればもっと楽しめたかもしれない。ただ、この場所は建築専門の書籍を売る場所で、観に来る方々はその筋のプロばかりだ、素人など眼中になかろう。

デビュー作ということでもう少し。
この場合、デビュー作とは、初めて作った作品ということではない。プロとして世間に通用するラインを、初めて越えた作品ということだろう。だからそこへ至るまでに、埋もれてきた数々の作品があるように思う。

先日、neutronで三瀬夏之介氏が率いるグループ展を観た。参加人数は20名以上、作品数も100点を超える力の入った展示だった。参加作家は、三瀬氏の教え子さん達が多いと思われ皆若い。それら作品の数々を観て思ったのは、何故か自分の封印した過去作品のことだった。これは、決して今回展示されている作品の完成度が低い、という話をしているわけではない。若い作家達の作品を続けざまに観たことで、眠っていた記憶が刺激され、個人的な昔の感覚を思い出しただけだ。
僕は卒業直後とにかく制作せねば、という思いが先行していた。コンセプト以上に作ること自体に意味があった。頭より手が先に動いていた。残念なことに、そういうスタンスで作った作品はもう残っていない。現実の諸事情に負け、保管に足る作品ではなかったということだろう。しかし、そういう作品達に意味がなかったとは思わない。逆にそれらがあったからこそ、今の自分があると思っている。
neutronの空間に埋め尽くされた作品達を観ていると、完成度やコンセプトという言葉ではなく、絵を描きたいとか制作に没頭したいという作者それぞれの思いが、束になって迫ってくるようだった。それらが、どのように発芽へのきっかけを掴み、デビュー作への着手に繋がるのだろうか。目の前の作品から将来を想像しつつ、刺激をもらい続けた。

「空洞説―円還⇔壷」遠藤利克(秋山画廊)2/11まで
「現代建築家のデビュー作 展」(GA gallery)1/22まで
「東北画は可能か?」三瀬夏之介ほか(neutron tokyo)1/29まで
0 CommentsPosted in 展示

誰のために

01 12, 2012
去年、ある映画の感想として「僕は自分のために働く」的な文章を書いたところ、色んな場所でその感想なり意見を頂いたので、少し補足しようと思う。

もちろん働くということは、その対価としてお金をもらうわけで、タダで動くわけではない。そこには責任というものがある。であるから、自分のためだけではなく、○○のためという相手が複数存在することは間違いない。
しかしここからなのだが、仕事の種類は色々あり、特にクリエイティブという分野になると、相手を喜ばせなくてはならない。なぜなら、それがないと信用が得られないからだ。ただそこには明確な到達点がない。そうなると「誰がやっても同じ」という仕事のやり方は成立しない。「任せられた」という責任がそこには在り、仕事に個性を出さねばならない。ここを踏まえると「誰がやっても同じ」というやり方ではアウトなのだ。相手に「なるほど」と思わせる何かが必要になる。そこで、その仕事の完成度をあげる絶対的な要素とは何か、と考えると○○が納得しそうな何か、を平均的に仕上げる以上に、自分が本当にそれでいいと思うのか、という「問い直し」が必要になる。それがその人の「表現」であり、依頼に対する応えに繋がると思う。
ただここで難しいのは、そのプレゼンを受ける側に、判断を自分で下す力を持っている人か、そうではない人か、という分かれ目がある。そうではない人に対しては、私がこう思ったという考えよりも、世間ではこれが流行ってます的な言葉の方がうける。しかし、これは変わるべきだと思う。よく言い訳をする人は「~がそう言うから。そういうキマリだから」的なことを発言するが、それは仕事において自分を消している人、ではなかろうか。(繰り返す、そういう種類の仕事があることもわかる。ぶっちゃけ多くの仕事はそういうものだ)

マニュアルというモノが、僕はどうも好きになれない。それがあることでスムーズにビジネスなり接客が進むのかもしれないが、その機械的対応に満足する人などいないし、何らかの相関関係が生まれるとも思えない。失敗は少なそうだが、仕事としての存在感が出るとはとても思えない。いま求められているのは、無難なやり方ではなく、「あなたはどう考えたのか、どう応えるのか」というその人ならではの思考ではなかろうか。「雇い主のためではない、自分のために動く」とは、そういう意味で書いた。社長だって、そういう社員の方が嬉しいと思う。少なくともそういう人は、失敗を他人のせいにはしない。

と、ここまで書いて思ったのだが、芸術を僕は自分のためにやっているかが、少々怪しくなった。これに関しては、たぶん使命としてやっている。生活上アートをやることで、失う部分は多い。とくにお金の減り具合は尋常ではなく、明らかにやらない方が懸命だと思う。しかし、そうできないのは、誰にいわれたわけでもない「自分の役割」があるように思えて仕方がないからだ。今これを僕がやらなければ、誰もやらないだろう。それはなんだか残念ではないか、という実に説明しづらい思いがあるのだ。これに関しては、自分のためでも家族のためでもギャラリーのためでも観てくれる方々のためでもない。それ以外の「大きな流れ」というか、つまりは何かの可能性を拡張するためだ、というしかない。
0 CommentsPosted in 仕事
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ