天狗:a long-nosed goblin

11 29, 2011
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対峙

11 28, 2011
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輪廻転生

11 26, 2011
写真に限ったことではなけれど、展示方法には様々なやり方がある。額に入れるのがスタンダードだが、その額にも色んなタイプがある。フレームの色や余白の開け方など、そのプレゼン手法には、作家の第二の個性が出ると思う。しかし、その見せ方が話題になることは少ない。まあそれは当たり前で、写されているモノが重要なわけだが、僕はその導入部ともいうべき展示手法が、写真作品を観る時いつも気になってしまう。

「REBORN “Tulkus’Mountain(Scene1)”」津田直(hiromiyoshii)
プリントサイズはそれほど大きくない。しかし縦位置で上下に組まれるように展示されている。上には霧に霞む木の写真、下はそれに呼応するような僧侶の写真がある。印画紙はマットで、写されている柔らかな光景と非常に合致している。フレームは木製の濃い茶色でガラスがない。空間は暗く、写真に合わせて切り取られた四角い光があたっており、写真そのものがぼわりと発光しているように見える。魅入れる。僧侶も弱い自然光で撮影されており、その表情もおぼろげであるが、どことなく微笑んでいて柔らかい。上にある木と、下の人間の存在感をリンクさせているのだろう。

タイトルにもあるトゥルクとは輪廻転生を信じるチベット仏教圏において、化身を意味する言葉らしい。現実の存在も、その考え方であれば全ては化身ということか。しかし彼らの魂は、転生していくので消えることはない。ちょうどその気候が維持される限りは、死なない木のように。

鮮明に写すことが流行った。画素数にモノを言わせて巨大にプリントし、目で見えないような世界を切り取ることが、写真の新たなブームを引き起こした。しかし、今回の津田氏の写真はそれと逆行しているように見受けられるが、その鮮明でないその光景は決して荒くはない、逆に実にきめ細かい。しかしそれらは霞んでいてよく見えない。それは実態に届かせない工夫なのだろう。存在感が表面に左右されないよう、輪廻転生していく流れそのものに迫るためか、コントラストが限界までなくなったようなその描写は、写真の持つ一瞬という要素を消して、普遍的な時間の概念を加えているように思えた。

ガラスがないことで反射がなく、ひたすら柔らかいその作品のプレゼン方法は、実に見事だった。観れてよかった。本日が最終日。
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レール

11 25, 2011
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侍とは

11 24, 2011
僕はある会社に勤めているが、社長と話したことは1回しかない。だからというわけではないが、あの社長に尽くしているという感覚が全くない。どちらかというと天皇ぐらい遠い関係の人だ。では上司に対して尽くしているかとなると、それも危うい。たぶん尽くすという感覚が現代にはそぐわない行為なのだと思う。基本的人権が尊重される今、組織は仕事上あるが、それは入れ替え可能なフォーマットに近い。僕は明らかに自分や家族のために働いているのであって、僕を雇っている人のために動いているわけではない。

「十三人の刺客」三池崇史(2010年日本)
時代劇だ。しつこい程に行動の前には言葉がくる。そして、その台詞の多くが格言のようである。「主君のために尽くすことが武士」vs「天下万民のためになすべき事をなす」がお互いの侍魂を賭けてぶつかる。そんなこと言っている暇があったら、極端な量の爆弾を用意して、さっさと事を完遂すればいいではないかと思うが、それは効率重視のつまらぬ考えだ。個人の意思ではなく、そこを超えたそれぞれが思う大義や正義が重要なのだろう。武士道に詳しくないので不明瞭なのだが、そんなにも主君という存在が尊いものなのか、現代人である僕にはどうにもこうにも理解できなかった。
侍であるということが、人間であるということより優位になるのかが非常に疑問なのだが、市村正親はそれを疑わず侍であることを優先する。映画のキャラとはいえ、無抵抗に泣く幼ない命を気まぐれに奪う稲垣吾郎は、明らかに狂っている。そんな主君を守る価値がどこにあるのか。役所広司が問う「おぬしが一番わかっているのではないのか」対して市村が叫ぶ「それをいうな」と。結局考えたくないだけではないのか、主君に使えるという美辞麗句を勝手に当てはめ、無惨に殺されていく無力な人々を見たくないだけではなかったのか。

困った個人が権力を握る不条理を思う。その家臣達は不遇で、切ない限りだろう。問題の主君、稲垣吾郎が「戦乱の世を復活させよう」と嬉しそうに話した直後に、光石研が松方弘樹に切られ「殿をたのむ」という言葉を残して死ぬのだが、心からそう思うのか、どこかで暴君が殺されることを望んでいたのではないのか、と聞きたくなった。
怖いなあと思ったのは、暗闇に浮き上がる白塗りの吹石一恵ではもちろんないが、エグい惨殺描写でもない、主君を盲目的に守ろうとする家臣達が、それを忠義として自分を美化し思考を停止していることだ。それは現在でも融通が効かない人の端々に感じる同じ臭いで、とても困る。いけないことは、いけないと言った方がいい。上がやれと言ったからではなく、自分の頭で考え判断した方がいい。それがある程度できる時代に生まれて、本当によかったと思う。

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任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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