ピント合わせ

08 31, 2011
自分が近視のためだと思うが、シャッターを切る際にピントがキッチリ合う瞬間が素直な喜びだったりする。それはおぼろげであったモノが、明確な正体を表すことであり、対象への正確なアプローチであると思うふしがあったのだが、もちろんそれは偏った考え方であり、対象への接近方法は様々だ。

石川文子「僕には光が見えはじめている」neutron tokyo 3f mini gallery
初めて石川氏の作品を観た。ほとんどの作品が、ソフトフォーカスのような印象で、トーンも対象物によって左右されるのではなくほぼ統一されていた。写されているモノは、特別な何かではなく、日常的な生活周辺にあるものと言えそうだ。しばらく見ているうちに、写そうとしているモノが、その対象物だけではないように思えてきた。そのもうひとつは、つまり「光」なのだろう。
今更だが発見と思えたのは、対象がボケるほどその輪郭は失われるが、代わりに発光体としての存在を主張し始めることだ。石川氏の作品群が、それほど明るいトーンではないのに、光に満ちている印象を受けるのは、そのためと私は推察した。対象が何かを知らせつつ、それが孕む光の量を最もバランスよく伝えるギリギリのピント合わせが、そこにはあるのだろう。ギャラリーオーナーである石橋さんのコメントにある「光を溜める」という言葉もこれと同義ではなかろうか。
展覧会タイトルにもある通り、作者には光が見えはじめているのだろう。しかしそれは通常の反射光ではなく、対象物そのものに宿る光に思われた。感度の高い眼を持っておられるのだろう。凄い武器だと思うし何より羨ましい。9月18日まで。
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高尾山

08 30, 2011
この前の日曜日、晴れた空と暑くない空気を目覚めとともに感じ、夏休みも最後だし外に出ようと考え、思いつきのままに娘を連れて高尾山へ行ってきた。初めて訪れたのだが、登山というにはゆるいし、散歩というにはそれなりに自然が堪能でき楽しめた。ビアマウント(ビアガーデン)なるものもあり、夜景などを見ながら、あそこで飲んだら、さぞ楽しかろうと思え、飲んでる方々が羨ましかった。
高尾山口まで電車で移動し、少し歩いてからリフトに乗った。娘はこれに反応し、風景を様々な角度で確かめたいのか、後ろを振り返ったり下を覗き込んだりと落ち着きが無く、僕は少し怖かった。前日のゲリラ豪雨のため道がぬかるんでいたが、いたって登りやすく、突然行こうと思い立った人を受けとめる懐の広い山だった。それは、行き交う人の格好が証明している。ハイヒールに近いサンダルでヒラヒラの服を着てキンキン盛り上がりながら歩く女性と、本格仕様の登山スタイルで杖をつきつつ慎重に歩みを進める人が見事に同居していた。
山セットを持っていない部外者も気軽に参加できる山は貴重だが、調べたらそれなりにあるのかもしれない。
4歳児の寄り道に付き合いつつ、だらだら登ったにも関わらず、2時間かからず頂上に着いた。意外にも娘は、この山を踏破したことが嬉しかったようだ。しかし、疲れなかったのだろう、なぜか持参した縄跳びをしていた。冗談のように盛りつけられたかき氷と、ノーマルなおでんを食べ下山した。走るなと言うのにかけ下る娘は、同じくかけ下ったことで、号泣する怒られた女の子を見て、突如走ることをやめ神妙に歩き始めた。しかしそこを差し引いても、あっさりスタート地点に戻れた。そして、そこにビアマウントがあるのだが、確かに今この気分でジョッキを握りしめるのは、至福の時間に決まっており、ここにこれを作った人は、実にすべきことをしたなと思うのだった。
調布駅を12時過ぎに出発し、再び調布駅に戻ったのが17時過ぎだった。コンパクトな登山体験と言えそうだ。

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white and green

08 29, 2011
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SF

08 27, 2011
初めてトーマス・ルフの「stars」というシリーズ作品を知った時のことを思い出した。NASAが撮影したフィルムを買い取りプリントした、というその作品に写る星の数はもの凄く、画面全体が白くなる程に光りまくっており、瞠目するしかなかった。宇宙空間は真空なため、光の透明度がまるで違うのだろう。

「星を継ぐもの」J.P.ホーガン(創元SF文庫)
眼科で待たされている時に読んだ漫画が、恐竜がなぜあのような重たい身体を地球上で維持できたのかを考察した内容で、その仮説がかなり面白かったので、調べたところ原作があることを知った。有名な話らしく確かに面白かった。
SFは久しぶりで、もっと荒唐無稽な話なのかと思っていたが、もろに理系的な裏付けが随所に入る誠実な展開なので、僕などは、ほとんど現実の話として読んでいた。そしてそこで明かされていく人類の起源に言及する箇所に触れた時、素直にそうだったのかとか思ったのだが、それは残念ながら空想の世界なのだった。

人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人の間には、決定的な断裂があるらしく、私達の祖先は彼らではないらしい。では私達はどこから来たのか、という問題に夢を持って応えたのが本書で、SFながらその説得力は大きく、夢中になれた。以下そのさわりを抜粋。

人間が地球上の他の動物となぜこうも違うのか。(中略)たいていの動物は、絶望的状況に追い込まれるとあっさり運命に身を任せて、惨めな滅亡の道を辿る。ところが、人間は決して後へ退くことを知らないのだね。人間はありったけの力をふり絞って、地球上のいかなる動物も真似することのできない粘り強い抵抗を示す。生命に脅威を与えるものに対しては敢然と戦う。かつて地球上に人間ほど攻撃的な性質を帯びた動物がいただろうか。この攻撃性ゆえに、人間は自分たち以前のすべてを駆逐して、万物の霊長になったのだ。(以下略)

物語の中では、うまい具合に話は終わる。しかし傲慢な現代人は、本書に登場するあるキャラクターと同じ末路にあるのかもしれず、面白いと言っている場合ではないのかもしれない。
タイトルがいい。
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奈良公園

08 26, 2011
何度観てもその大きさに驚いてしまう建物が、僕の中では東大寺なのだが、今回もやはり、こんなに大きかったか、という思いは消えなかった。これを写真に撮っても無意味なことは分かっているが、やはりその迫力にシャッターを押さざるをえない自分がいた。間違いなく実物との落差を痛感するだろう。写真の無力さを思う。
建物が大きいことはもちろんだが、南大門から始まり、そこへ至る道や両サイドに広がる空間もまた広く、当時の人のスケール感に脱帽する。
再びの金剛力士像も新鮮に観ることができた。その存在感は、木の風化具合なのか金網越しの効果なのか判明しないが、現実離れしており、実物を観ているはずなのに、実態として認識できない幽玄さを伴うように思われた。庭巡りでは終止微妙な表情だった娘も、この威圧感は想定外だったようで、ずっと口が開いたままだった。

奈良公園は観るものが集中していてありがたい。そしてやはり鹿の存在は大きい。その自然が本物であることを明確に代弁しているし、なにより絵になり美しい。空気のように近寄ってくる仕草も日常にはない体験で、娘は狂気乱舞であった。「お友達になる」と言いつつ子鹿に近づき、なで過ぎたのか、母鹿に小突かれ泣いていた。

興福寺の国宝館で、千手観音菩薩や阿修羅像を実は初めて観た。展示空間も素晴らしく、奈良時代から受け継がれる国宝はさすがで、これが1300年間存在する作品と考えると、新しいという概念の軽薄さを思うしかない。存在価値は人ではなく時間が決めるということか。

濃度ある体験だったのだろう。昼間全く寝ない娘が帰りの電車で熟睡していた。今日の記憶が4歳児の頭に残るのかどうか、少し考えた。

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春日大社で神様へ手紙をしたためる娘

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春日大社の神の使い
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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