オタク
05 30, 2011
機動戦士ガンダム最終回の日、その時間になるといつもの野球は尻切れトンボで終わり、みんなで自転車をかっ飛ばし各自の家に帰った。その最終回がどんな内容だったかおぼろげだけれど、終わったゆえの喪失感は覚えている。その前後は、ガンダムの世界に浸っていたい思いでプラモデルを熱心に制作した。ガンプラシリーズの魅力は絶大で、小学生だった僕は無い知恵を絞り、理由をつけては親を説得し、信者のごとくドムなどを作っては、ジェットストリームアタックを再現していた。さらに戦いの傷を付けることで、感情をも入れ込み、あのTVで見た感動を味わおうと必死だった。しかしそんな思いも、いつのまにか消えてしまった。
「動物化するポストモダン」東浩紀(講談社現代新書)
オタクの心理的状況と社会情勢の流れをリンクさせ、時代を読み解く彼独特の手法が小気味よい。大きな物語の喪失や、萌え要素のサンプリング、オリジナルなきコピーであるシミュラークル、動物化といった言葉は、確かにオタクの世界とその時代を関係付けるに適したキーワードなのだろう。いたるところで使われそうだ。ただ読みながらやっていたことは、過去の自分の記憶の検証だった。
物語に依存する心が、なくなるきっかけがいつだったかを考えると、たぶんプラモデルを作らなくなった頃だと思う。設計図に従って完成までの道筋をたどることが、もどかしくなったのだ。速く完成の姿を見たいのに、塗料が乾かない等の過程が耐えられなかったんだ思う。継続すべき感情が消えたわけだ。実態が必要なくなったということか。
少し前に実物大ガンダムが話題になった。見に行こうかと思ったけれど行かなかった。結構混んでいたようなので、熱心なファンがまだまだいるようだ。そしてあのプロジェクトを実現させた方々は、僕がなくしたあの感情を執念深く持ち続けたのだろうと勝手に想像した。
オタクを僕は尊敬している。そもそもオタクとは、ある専門知識に秀でた人をそれとなく揶揄する言葉だと僕は認識しており、全然褒め言葉だった。しかしどうやらオタクとは「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じ込もりやすい人」ということらしい。ただしこの捉え方はある猟奇事件後の特殊な見られ方でしかなく、本来は先鋭的なサブカルチャー集団として機能していたはずだ。彼らはその特殊な趣向活動をリスクを背負って継続するわけだ。風当たりも強かろう。以前深大寺で、かなりマッチョな男性2人が肩に大きな人形を乗せて散歩していた。時々その人形の髪を整えては写真を撮ったり、お互いの人形に対するコメントを交換していた。あのような趣向を共有できる友人がいる場合、相当強い連帯感が生まれそうだ。彼らが「オタク」かどうかはわからないが、興味は尽きなかった。しかしずっと尾行するのは変だ。その人形を撮影するまでが精一杯だった。
東浩紀はオタクになれなかったのだろう。同じような立場に村上隆もいる。そして彼らもオタクを尊敬しているのだと思う。なんとか彼らの情熱を自分のものにしたいのではないか。分析し作品にし、その扉をたたいているのだろう。しかし、彼らに対してその扉は開かないだろう。それは相当な純度を持った特別な人種しか入れない世界なのだ。
個人の趣向が時代ごとにサクサク分類できるほど、オタクの世界は明解なのだろうか。もちろんTV番組やゲームの種類、キャラクター等は解析できるだろうが、そこに絡み合うそれぞれの思考までは見えてこない。あの人形を肩に乗せて堂々と闊歩していた2人が、脳裏にちらついて仕方なかった。

「動物化するポストモダン」東浩紀(講談社現代新書)
オタクの心理的状況と社会情勢の流れをリンクさせ、時代を読み解く彼独特の手法が小気味よい。大きな物語の喪失や、萌え要素のサンプリング、オリジナルなきコピーであるシミュラークル、動物化といった言葉は、確かにオタクの世界とその時代を関係付けるに適したキーワードなのだろう。いたるところで使われそうだ。ただ読みながらやっていたことは、過去の自分の記憶の検証だった。
物語に依存する心が、なくなるきっかけがいつだったかを考えると、たぶんプラモデルを作らなくなった頃だと思う。設計図に従って完成までの道筋をたどることが、もどかしくなったのだ。速く完成の姿を見たいのに、塗料が乾かない等の過程が耐えられなかったんだ思う。継続すべき感情が消えたわけだ。実態が必要なくなったということか。
少し前に実物大ガンダムが話題になった。見に行こうかと思ったけれど行かなかった。結構混んでいたようなので、熱心なファンがまだまだいるようだ。そしてあのプロジェクトを実現させた方々は、僕がなくしたあの感情を執念深く持ち続けたのだろうと勝手に想像した。
オタクを僕は尊敬している。そもそもオタクとは、ある専門知識に秀でた人をそれとなく揶揄する言葉だと僕は認識しており、全然褒め言葉だった。しかしどうやらオタクとは「人間本来のコミュニケーションが苦手で、自分の世界に閉じ込もりやすい人」ということらしい。ただしこの捉え方はある猟奇事件後の特殊な見られ方でしかなく、本来は先鋭的なサブカルチャー集団として機能していたはずだ。彼らはその特殊な趣向活動をリスクを背負って継続するわけだ。風当たりも強かろう。以前深大寺で、かなりマッチョな男性2人が肩に大きな人形を乗せて散歩していた。時々その人形の髪を整えては写真を撮ったり、お互いの人形に対するコメントを交換していた。あのような趣向を共有できる友人がいる場合、相当強い連帯感が生まれそうだ。彼らが「オタク」かどうかはわからないが、興味は尽きなかった。しかしずっと尾行するのは変だ。その人形を撮影するまでが精一杯だった。
東浩紀はオタクになれなかったのだろう。同じような立場に村上隆もいる。そして彼らもオタクを尊敬しているのだと思う。なんとか彼らの情熱を自分のものにしたいのではないか。分析し作品にし、その扉をたたいているのだろう。しかし、彼らに対してその扉は開かないだろう。それは相当な純度を持った特別な人種しか入れない世界なのだ。
個人の趣向が時代ごとにサクサク分類できるほど、オタクの世界は明解なのだろうか。もちろんTV番組やゲームの種類、キャラクター等は解析できるだろうが、そこに絡み合うそれぞれの思考までは見えてこない。あの人形を肩に乗せて堂々と闊歩していた2人が、脳裏にちらついて仕方なかった。
