複雑

03 30, 2011
作品の魅力に手数というのは確実にあるだろう。日本人の特性なのかもしれないが、目をむくほどの凝視を強いる作品には、一見して全てが把握できない情報量がそこに在るため、長時間観る人を縛り付ける。そこを売りにしている作家も多い。そして彼らの作品の前に立つ時、その狂わんばかりの描写に目が翻弄される。そしてそれは戸惑いを生じさせるものの、同時に観者に安定した充溢感をもたらすものなのだろう。コンセプト重視の視覚的にはスカスカな抽象作品が、クールな趣を醸し出すとするなら、筋肉勝負のようなそれらには、空間を埋める複雑怪奇な文様効果を通した、宗教性が宿るのかもしれない。怨念ともいうべきその手作業の集積を観る時、自分は何か楽してないか、できるだけ簡単に事を済まそうとしてないかと再考させられる。そして、物事に絡む要素が決して単純ではないこと、逆にそれぞれが複雑であったことを思い出す。そういえば過去の巨匠達の作品においても、そういう細かな描写は特に珍しいものではなかった。
現在多くの分野で速度が重視され、それに伴い諸事情はパターンとして簡略化される。優先すべきは効率的に一定の完成度をあげることでありそれ以上ではない。そこに複雑化する利点を考慮する時間はない。新たに生み出すことよりデータベースからのセレクトが生き残る術になる。信頼は感情ではなくデータにある。そんな状況で、人はさらに手を動かすことが減り、触るものが減り、考える内容も平均化されるのだろう。
ピクサー映画に登場する未来人は、自分で立つことすらできないブヨブヨの体を移動式ベッドに横たえるだけだった。もし彼らが何かの拍子にこれらの作品を観たら、人間の手が生み出す緻密な動きの厚みに驚嘆するだろう。アートがそういう生産性とは、距離を持たねばならない理由を、こういう作品達を観ると意識できる。整理できない分析しずらい複雑性を保つことで、初めて維持できるクオリティーというのが確かにあるのだろう。
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ジーナ

03 29, 2011
TSTAYAで過去の映画をまとめたお薦めコーナーがあり、無限に時間がない今、こういう企画はありがたい。かといって端から見れるわけではないが、そういう作品を知るだけでも、充分意味があるように思う。
で、「グロリア」(1980年)を見てみた。なんでもレオンの元ネタ的な作品らしい。シャロン・ストーンでリメイクもされたようだが、そちらの評判はよろしくないようだ。このジーナ・ローランズが良いらしい。強い女性映画の先駆けというべき作品!とかなにやら熱いメッセージがPOPに書き込まれており、誘われるまま借りてみた。そのジーナさんの格好良さを期待したわけだ。関係ないが、パッケージにその古さが滲んでいて、どこが違うのか検討していないけれど、直球的風格を感じた。

そのジーナさんが「コーヒー頂戴」という台詞とともに登場した時、目尻のしわに視線が集中してしまった。そこには迫力というしかない苦労が刻まれており、ただものではなさそうなことがよくわかった。撮影当時46歳のジーナさんだが、避けようのない事情で男の子と逃げることになる。明らかにめんどくさそうだ。ぜんぜん格好良くない。若い頃はさぞかし美貌だったのだろうけれど「もう太って走れないの」とこぼすあたり台詞とは思えなかった。気の毒な運命の男の子には同情するが、いまいち気に入らないという表情があからさまで、男の子もなんだか微妙だ。そう考えるとナタリー・ポートマンは美少女だった。こういう子役事情にも時代を感じる。しかし、もちろんそれがこの映画の真骨頂なのだろう、しばらくするとジーナさんがイカして見えてくる。ためらった末なのだろうけれど、何のためらいもないかのごとく弾を敵に打ちこむ「やってしまった感」は見事だった。口が減らない少年も、健気なシーンが蓄積されると情も移り、映画が終わる頃には、POPの宣伝コピーと全くおんなじ感想を抱いている自分に気がつく。そして時の洗礼を受けてなお残る作品の強度を思う。鮮度の追求もいいけれど、なぜこれは残ったのか、という作品を少し勉強してもよさそうだ。

ただ最後は美しいシーンだったけれど、問題が解決されていないようでしっくりこなかった。リュック・ベッソンは、このグロリアの書きこぼされた部分に対し、しっかりと結末を付けたかったのかもしれない。
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電気

03 26, 2011
節電や停電は今後も避けられないだろう。ただ節電の影響で少し暗くなった風景は、意外に新鮮で悪くない。過剰な明るさをどこかで嫌悪していたのだろう。スーパーの妙なBGMが消え、注意を促すアナウンスもなくなると、別にこれはこれでいいのではと思えてくる。職場ではエレベーターが使用禁止になり階段での昇降になった。多少疲れるがそんなことは皆言わない。逆に無駄に行き来することがなくなり、本当に降りていいのか、同時にかたずけられる仕事はないかと考えるようになった。地下鉄のホームも日を追って暗くなり、日本らしくなくなった。繁華街には行ってないのでわからないが、多少は変化しているのだろう。そしてこれからこれが日本の新しいイメージとして、記憶が書き換えられるのかもしれない。暗いことが不安で、それをごまかすべく化粧していた風景が、素顔をさらしているようだ。森村泰昌が昔TVで「美術の歴史は闇に光をあてる歴史だった。最初は蝋燭の炎で、そして徐々にその光は過剰になり隅々にまで光があてられ、逆に白い闇になってしまった」と語っていたのを思い出す。今少し逆回転してその白い闇から、本来の姿が見えてきたのかもしれない。停電は困るけれど、家の風景が一変し微かな光に家族が集まり、影の存在を知り夜を意識する。もちろん、被災した方々にとって、闇は恐怖以外の何者でもない。避難所は明るく暖かくあって欲しい。街にもある程度の明るさがないと、危ないことは多々あるだろう。しかしここで、やり過ぎていた何かに気ずく必要があるとは思う。
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stone

03 25, 2011
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OZAKI

03 23, 2011
何となく気になっていたドラマをテレビで見た。それは尾崎豊の話。
数日前に主演の成宮寛貴の写真が新聞に載っていて、それが驚くほど尾崎豊に似ていたのが、気になった理由だった。ドラマは正直面白いとは思わなかったが、時々出てくるノートに走り書きされた歌詞や実際に歌われるシーンを見ると、よく聞いていた当時の感覚を思い出し、自分の過去を反芻することはできた。コンサートに行く程ではなかったけれど、随分彼に影響されたし、初めて15の夜を聞いた時、こんな歌を作る人がいるのかと思い、素直に感動した。しかし大学生になると、尾崎が好きだとは言えない空気をどことなく察知した。そして、それは今でも鮮明に覚えているのだが、「尾崎豊怪死」というスポーツ新聞の見出しを、僕は早朝の川崎大師で見たのだった。バイトでそこにいたのだが「そうか死んだのか」と変に納得し、驚くほど驚かない自分に驚いた。その感覚が何処から来るのか解らない。ただ、それまで必ず発売日にレコードを買っていたのに、その最後のCDは何故か購買意欲が湧かず、レンタルで聞いたのだった。このレコードからCDへの変換期に僕の感覚も変換されたのかもしれない。
ドラマがどこまで忠実なのか知らないけれど、真っ当な御両親のようだし、面倒を見ていたプロデューサー?も素晴らしい人に思えた。結婚し子供も生まれ、彼の周囲には何も問題がなかった。あえて言えば、彼が歌うような反抗すべき何かが消えてしまったことか。ただ、逆境を無理に自作するような彼の20代の生き方は、やはり不自然だろう。
再注目されているのか、時々カバーされた彼の歌を耳にする。相当な違和感を覚える。徳永英明が色々カバーして流行ったけれど、カバーされていい歌とそうでない歌があるように思え、尾崎豊の歌は尾崎豊のものなのだろうと感じた。コンサートのシーンで、一緒に歌っている観客に対して、彼が「歌うな、歌うな」と繰り返していたのが、印象的だった。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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