文学は終わった。ということを様々な人が言っているらしいが、同じ現象は美術でも起きていて、全てはやり尽くされたという話は、いたるところで耳にする。しかしそんなことはない。
「切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」佐々木中(河出書房新社)
著者の言う、本を読むという概念は容赦がない。しかしそれは実に新鮮で驚くと同時に、安易に本と接してきた自分を戒める。著者は本を読むとはどういうことか、文章を書くとはどういうことかを過去にさかのぼり検証し、その実態を露にする。特に宗教改革を起こしたルターが、いかに本を読んだかを読者に訴える部分は熱い。彼は、平然と行われる教皇位の世襲化や聖職者の堕落に違和感を覚え、それは違うと発起する。そのきっかけは、本を読んでしまったこと、つまり聖書の記述と現状との差異に彼が気づいたことにある、と著者は言う。そしてその後ルターの書いた本が、文盲率の高い当時の世間で広まった事実が、いかに奇跡的だったかを論証するくだりは感動的である。16世紀初頭のドイツでの書籍刊行点数が40点であったこと、ルターの登場でその数字が498点に激増したこと。しかもその内の418点はルターとその敵対者が書いたことを、もちろん僕は知らなかった。
19世紀というのは文学の黄金時代と呼ばれているらしい。しかし当時の小説家達が、いかに破滅的な状況で本を書いていたかにも著者は言及する。文盲率90%のロシアで「罪と罰」を書いていたドストエフスキー、似たような状況下にトルストイ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、他国にはディケンズやボードレールがいたようだ。ニーチェの「ツァラトゥストラ」の最終部は出版社に見捨てられ、自費出版で40部刷り知人に贈った7部しか出回らなかった。
小説を書くとはどういうことか、誰も理解してくれないことが自明な状況でなぜ彼らは本が書けたのか、それは彼らが「本を読んでしまった」から、ということなのだろう。そしてそこで何かを受け取ってしまったからなのだろう。同じ事が美術にも音楽にも何にでも言えるように思う。それを見てしまったから、聞いてしまったから、味わってしまったから。それらの経験が次へ繋がる発端であることは間違いない。自分の境遇を問題にしている場合ではない。作品から何かを受け取ってしまった人がやることは、ただひとつしかない。
現在の状況が様々取りざたされる中で、こんなことをしていていいのかと自問し、手が止まった人がいるとしたら、この1冊はそれでも手は動かすべきだ、という後押しになるのではないだろうか。
新聞に大きく掲載される痛ましい写真やその記事に胸を痛めつつも、出勤すべく家を出る。いつも使う駐輪場に行くと係員に「行けるとこまで自転車で行った方がいいよ」と勧められる。確かに駅は人だかりで改札口が見えず、しゃがみこむ人が道路まで溢れており、とても電車に乗れそうな雰囲気ではない。仕方なく次の駅まで移動する。その駅の駐輪場でも全く同じことを言われる。しかしこうなると、たぶんどこでも同じだろうし、職場まで自転車で行くのは、正直しんどく、ここで様子を見る。
こんな状況になりつつも、日本人の規制された行動力を賞賛する記事をいくつか目にしたが、それはこの駅でも同じで、きれいに2列になった行列の最後尾に僕も並ぶ。特にどなる人もなく、まあ仕方なかろうという感じだった。急行が止まる駅のせいか、15分程待つと電車に乗れる。もちろん混んでいたが仕方ない。職場には6割くらいの社員が到着していた。節電のため廊下は暗く、エレベーターも停止。街の風景から感じる平凡な空気と、現実におかれた状況のギャップを思う。それは自分が行う仕事と、被災している方々の苛烈な現実との乖離を思わせる。自分にできることは節電ぐらいで、次々に役立ちそうな情報を発信する人々のような、伝えるべき何かが全くないことを無念に思う。記事としての文字に集約された、それぞれの人生をただ想像するだけだ。
単一乾電池を買ってくるよう妻に頼まれたが、どこにもなかった。僕は買い物すらできないようだ。仕方なく、こんな状況で不謹慎かもしれないが、ホワイトデーの小さな包みをふたつ買って帰宅した。