年越し

12 31, 2010
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皆様にとって良い年が訪れますように。
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トップスター2人

12 27, 2010
10年ぐらい前に友人の新居を訪れた際、初めて換気扇みたいな壁掛けのCDプレイヤーを見た。そのCDが回り始めて音が流れ出す感じが、換気扇を回して風が動き出すイメージを見事に思い出させ、部屋の空気を音で洗浄しているようで、音質がどうのこうのという高価なスピーカーとは異なる音の演出に、新しいデザインとはこういうことかと思った。ただ、その作品が深澤直人のものと知ったのは随分後のことだ。

「デザインの輪郭」深澤直人(TOTO出版)
「芸術闘争論」村上隆(幻冬舎)
この2人の文章を比較することに意味があるのかどうか微妙だが、ちょうど連続して読んだこともあって、その対照的な言葉の数々が、デザインとアートの曖昧さを象徴しているようで面白かった。プロダクトデザインを極める深澤直人の言葉には、アート的な雰囲気が漂う一方、批判が絶えない芸術家村上隆の言葉は、ビジネスノウハウの伝授と言っていいものだった。デザインとアートをどう捉えるかが、考え方によって全く異なる姿を見せるゆえんだろう。村上隆のデザイン論、深澤直人の芸術論となっていた方がしっくりくるかもしれない。それぞれが自身の制作に対する思いをぶつけているのだが、深澤直人の詩的なアプローチに対し、村上隆のそれは「ルール」に基づく緻密な機械的作業である。どちらがいいという問題以前に、あまりのチャンネルの違いに驚くしかない。(以前、村上隆と佐藤可士和が対談していたが、その組み合わせは理解できた)

ただ、完成されたそれぞれの仕事を見た時、僕は明らかに深澤直人のデザインには感動するが、村上隆のアートにそういう感情を持ったことはない。深澤作品の見事だなと思わせる理由のひとつは、その実物を見なくてもその作品の外観を語られただけで、勝手に想像が膨らんでしまうところだ。「厚さ6mmの人工大理石の本棚は、薄い素材で安定した構造を成すためにX字の筋交いを入れたが、それが本を無造作に立てかけた時の傾きと重なり、、。」僕などは、もうこの言葉だけで、その本棚が際立つ様が脳裏に浮かび、美しいだろうなあと素直に思う。そして実物の普通さがいい。過剰なデザインが多い中、その何もしていないように見えるさりげなさは、ありがたく思う人が多いのではないだろうか。
対して、村上隆の言葉に想像の余地はない。極端な例をあげると「絵を作るには、1.構図、2.圧力、3.コンテクスト、4.個性の四つの要素があります」とか「西欧における現代美術のコンテクストは、1.自画像、2.エロス、3.死、4.フォーマリズム、5.時事、この五つをシャッフルするのが好まれます」等がある。もちろんこれは、芸術の難解な部分を解剖するがゆえの説明なのだろう。本には作品が仕上がっていく過程が、丁寧に写真付きで提示されておりその苦労が偲ばれるが、それが僕の場合感動には繋がらない。逆にそういう方程式に合わせて、システマティックな制作スタイルを確立したことの方に注目してしまう。好みが分かれるところだ。

そんな2人が同じように語るテーマがひとつあり、それは教育の重要さだった。
2人とも社員には容赦なく厳しそうだ。特に美大生が口にする理屈には相当嫌悪感があるようで「自由を勘違いしている人が多い」という意見はそっくりだった。2人とも次の世代を育てるべく苦労しているのだろう。なんとかして妙な空気を正そうとしている姿は尊敬に値するし、その授業は聞くべき価値があるように思え、その半端でない両者の生き様には恐れ入る。

平野啓一郎の「身体と出現」というエッセーの中でデザインとアートの区別を、彼は宇宙人を通して論じている。人間を全く知らないエイリアンが、人類亡き跡に残された様々なデザインを見て、これを情報としてパズルのように組み合わせ、これらを使用していた生物の形を想像する時、そこに浮かぶ姿は、だいたい人間と同じ様相になるのではないだろうか。と彼は推測する。優れたデザインは、人体と呼応する形態を持つからだろう。そして次のようにまとめている。「その時、明らかに人工物であって唯一、彼の人間という概念を混乱させるものがあるとするならば、それこそは芸術である。その形は、決して彼の思い描く人間の生活の日常には収まりきれず、また人間の身体を合理的にその生活へと結びつけるものではないだろう。芸術は彼に、人間の身体の輪郭を結びきってしまわせない何かであり、人間の生活とその外側との風通しのよい開口部である。創造された新しい身体の一挙種一投足が、空間を描き出し、世界を招き寄せる。」
これが「人間の輪郭とデザインの輪郭は同じだ」という深澤直人の発言ときれいに対をなしていて興味深い。
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12 24, 2010
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井の頭公園
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営業

12 22, 2010
展示まで約1ヶ月となった。場所は京都。
僕が大学を出てこういう活動を始めた頃は、コンペや貸しギャラリーでの発表が主流だった。(ように見えた)しかし今、そういうコンペは減り貸しギャラリーも徐々にクローズし、状況は変わった。ただ、わかっている人は当時からコマーシャルギャラリーに所属し、的確な発表を続けていたはずで、僕は10年以上見るべき方向がわかっていなかった。個人的な思い込みと、そういう活動をしている人との接触がなかったことが原因だろう。そして気がつくと、若いと思っていた年齢がそうではなくなり、遅ればせながら、コマーシャルギャラリーへの営業活動をせねばなるまいと思うに至った。
当然のように無視された。丁重な手紙とポートフォリオを送るのだが、もちろん見てくれないまま時間は過ぎる。確認すべく電話をすると、オーナーでもない社員の方が「資料は見ていないけれど、多分こちらから連絡することはないと思う」というお言葉を頂いたりする。名前を間違えられてファイルが送り返されることもあった。ただ、こういうことは誰でも少なからず体験するものだろうし、どこかにいる拾う神を信じて、ポートフォリオの修正を繰り返し送り続けた。そしてある朝、今回展示をするギャラリーからメールが届いていた。ありがたかった。こういう時思うのが、やめずに続けてよかったという感覚だ。
別に発表にこだわる必要はないと思うが、展示という行為で自分から作品を引き剥がすことが、僕の場合は必要だということを、この数年で実感しており、なんとか発表の機会を探していた。活躍している人のブログを見ると、その展示機会の多さに驚く。そしてそれは大抵、個人でどうこうできるものではなく、明らかに所属ギャラリーの力だろうと推測できた。そしてそれが世界的なスタンダードで、そうやってひたすら走り続けることが、作家としての動きに柔軟性を生みキャリアとなり、人間関係を繋げる発端になるわけで、僕のようにその道の関係者と全く繋がっていない者が、閉じこもって制作する不健康さは明らかだった。もちろんヘンリー・ダーガーのような例もあるが、僕の場合は、好きにひきこもって制作しているわけでも、あえて人に見せないわけでもない。

展示しようとしている作品は、ここ2~3年で制作してきた一部と、それをベースに新しく撮り直したものになる。これが人にどう捉えられるかは未知数だが、少しでも楽しんでもらえればと思う。そして、はやく実際の空間に作品をインストールしてみたい。個展をやれる最大の面白さは、自身の作品が空間をどう変化させたのかを実体験できることにある。そして同時に、空間によって作品が僕から引き剥がされ、新たな存在として屹立する。そこで初めて「ああこうなるのか」という感覚が味わえるのだが、これが今から楽しみで仕方がない。
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両極端

12 16, 2010
写真とそれを写した人の文章は、やはり密接に関係しているようで、その人の文章は、その人の写真にそっくりだった。

「実を言うと私は、写真のことを信用しています」荒木経惟(日本図書センター)
「話す写真 見えないものに向かって」畠山直哉(小学館) 

もともと好きではないし、これからも好きになれそうにない荒木経惟の写真は、特に見る気がないのに様々な展示で出没し、勝手にこちらの意識へ、雑音のごとく入り込んで来る感があった。浅田彰に欲望の垂れ流しと言われ、あの特徴的な外見で、自分のことを天才と連呼することで、風当たりも強かろうと思うが、彼にとってはそれらはたいした問題ではないのだろう。今回初めて彼の文章を読んで、その文体や内容があまりにアラーキーそのもので驚いた。以前、笑いに転化しないと恥ずかしい人種がいると書いたが、彼の場合はエロに転化しないと逆に恥ずかしいのだろう。真面目ないい話が、徐々に性的な単語で埋めつくされていく過程は、彼の展示そのものかもしれない。ただそんな彼も、妻を病気で喪う話に関しては、真面目に書かざるをえなかったようで、ひたすらそのままの思いを記述しており、なぜか安堵した。

荒木経惟はの展示は、プリントがそのまま壁に貼られていたり、そのプリントが印画紙でなくカラーコピーだったり、ポラロイドだったり、それらが壁面に埋め尽くされていたりして、とにかくうるさく主張するタイプであることが多い。
そして、それとは対照的な展示、つまりキッチリ額装された写真で展示空間をデザインし、写真も欲望から始まるのではなく、明快なコンセプトで貫かれた作品群で知られる畠山直哉の言葉は、そのまま作品の明晰さがのり移った丁寧な話に満ちていた。ご本人の姿を見た事はなかったが、アーティストトークの写真が載っており、その姿は誠実そうで、アラーキーのような怪しさが一切なく、信用するならこの人だという感じだった。作品を説明するその語り口は、修道僧のように純度が高く、思考していることも高尚で、その写真はアートとしての価値を越えて、学問的価値があるように思う。

さて、彼らの作品は同じギャラリーで扱われているのだが、実に対照的で同じ写真というベースがあるにも関わらず作品としての接点はほぼない。しかし、それは逆に写真の可能性の広がりを暗示しているとも言える。現在荒木氏は70歳、畠山氏は52歳である。それぞれの新作は、レディ・ガガを縛ったのが70歳で、山手通りをたんたんと描写したのが52歳、ということになる。どちらが元気かとなると、それは間違いなく荒木なのだろう。正直、山手通りの作品は難解だった。荒木経惟は70歳になっても「やっちゃえ、やっちゃえ」と作品を作り、畠山直哉は熟考に熟考を重ね続けている感じだ。どちらがいいかとかいう問いではない、それは個々人によってそれぞれの考えがあるだろう。ただ、制作するということに対しての決定的な違いを、この2人を見ていると解りやすい。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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