金魚すくい名人の映像をどこかで見た事がある。たしか紙を濡らさないようにヘリを利用して次々に金魚をすくっていた。そんなセオリー的な方法から最も遠いやり方で、先日娘が金魚をゲットした。いきなり水に浸し垂直に金魚を持ち上げ、紙を破いているにもかかわらず、なぜか金魚は下に落ちず、娘のもつお椀に移動していた。正直に言うと僕はまだ一度も金魚すくいで成功したことがなく、そのプチ奇跡にびっくりした。周囲の大人達からも拍手の祝福を受けていた。たぶん本人が一番わかっていなかったと思う。
せっかくの一匹を死なせてはならないと、その金魚君のために金魚飼育の材料を近所のホームセンターへ買いに行く。同じような境遇の方々がそれなりにいたようで、水草などが売れに売れていた。その事実は、生き物を大切にする家族が多い感じがして微笑ましい。娘は金魚君の家を選んでいた。かなり渋い流木タイプがお気に入りのようだった。
水槽の中を泳ぐ金魚を凝視していると、なぜかしばらく見続けてしまう。魚特有の無表情な顔から、何か読み取れないものかと思ってしまう。しかし、口をぱくぱくさせて金魚君はただ生きているだけで、感情的なものは見えてこない。そして実に静かだ。なにやら忙しそうだがほとんど音をたてない。隙間を狙う戦略とか関係なく、ただ移り変わる環境のなかで、生きられるだけ生きるのが金魚君のライフスタイルなのだ。
縁日の金魚は、勝手なイメージだが長生きしそうな感じがしない。尾びれに傷もあるし、当たり前だが実に小さい。この金魚君の命が尽きて、ぷかぷか浮かんでいるシーンは切なそうだ。その体に対して大きすぎる目を見ていると、長生きして頂戴と思う。
「人間に例外などない。誰ひとり人間は選ばれてなんかこの世に生まれては来やしない。もし生まれつき別格で美しかったり悪かったりという人間がいたら、自然が見逃しておかない。そんな存在は根絶やしにしてしまうだろう。あなたは本物ではない、なぜなら自然を嫉妬させる程の魅力がないから。あなたには誰の目にも喪ったら惜しいと思わせるようなものが何ひとつないから。あなたは自分を選ばれた特別な人間と思いたいのでしょうけれど、自然はあなたに目もくれず、あなたに敵意を持つことなど金輪際ありはしない。なぜならあなたは偽物だから」三島由紀夫(かなり要約)
血眼になっても望むものはほぼ手に入らない。しかし血眼にならなければ何も手に入らない。また悔しいことに、特技があったとしても、自分以上にそれを鮮やかに完遂する人は必ず存在する。そして、その人はさしてそれを行うことに力を必要としていない。
「能力のある人は、その能力を望んだりしない」と妻に言われ、妙に納得したことがある。執着心や向上心は、自分の未熟さを知るがゆえに生じるものであって、それを自覚する機会は、優れた他人を見る経験が一番だろう。ましてやその天才がさらなる努力をしていようものなら、手に負えない。安藤忠雄は建築家になる前、そのあまりに華麗なファイティング原田のスパーリングを見て、ボクシングに見切りをつけた。
自分がいまだにのうのうと制作を続けられるひとつの理由に、本物の逸材をまだ見ていないという事実があるのかもしれない。もしくはその存在に気付く眼がなかったのかもしれない。スポーツであればその歴然と冷酷なまでに示される力の差が、こと芸術になると完全に曖昧になるゆえ、作者がやめない限りその行為は続けられる。
「豊穣の海」三島由紀夫(新潮社)を読んでそんなことを考えた。ただこの小説はそういう話ではなく、三島由紀夫もこういうことが言いたかったのでは全然ない。結末の空中分解に合わせて、それまでの贅沢の限りを尽くした言葉の数々が飛び散るなかで、冒頭の台詞が僕にへばりついて剥がれなかったということだ。三島はこの小説を書き上げた一週間後に自決する。その行為自体には多くの意見があるだろうし、ここでどうこう書くつもりはないが、彼はなんとかして自分を特別な存在にしたかったのだろう、とは思う。
作品や名だけが残るというのでは『蜘蛛の糸』の、自分の下で糸を切るカンダタと同じことではないか。大事なことは、小説家は小説を書くことによって、作品や名を残さない人の生きた時間を不滅へ近づける道筋を探すことだ。(保坂和志)
種の生存年齢には様々な説があるらしいが、平均すると約1000万年とか言われており、そこで人類は少なくともあと100万年は生きるのではないか、と考える人が多いらしい。あのラスコー洞窟壁画登場から現在まで、まだ1万5千年なのに、これから80万年近くも人類は存在するらしいのだ。(人類の年齢をネアンデルタール人から数えた場合、現在20万歳となるため)
あらゆる芸術は、既にやり尽くされたという説は健在だが、この数字を見るとそうでもなかろうと思う。まだまだ新しい何かは生まれてくるはずだし、現在の金字塔的作品もどう残っていくのかは誰もわからない。ピラミッドや万里の長城だって100万年規模で考えれば、消滅する可能性は充分ある。地球は約50億年で寿命を迎えるらしいし、宇宙自体の終焉説もある。存在は必然的に消滅を伴うものであって、永遠という言葉もそこではもろいものだ。
話が拡大してしまったが、つまり名前や作品そのものは、残るべきたぐいのものでは無いのかもしれない、ということだ。しかし、創造行為を続ける人は、その時代の中で一定数存在し続けるとは思う。作品を通じてそれらの行為が引き継がれる現象は、人の存在と共に脈々と続いてきた。それはどんないいかげんな例でもいい。始まりは、憧れや自己主張の手段かもしないが、そんな動機はすぐに消える。もちろんそれと同期してステージを降りる人も多い。しかしその中に創造の何かを見てしまい、降りるに降りれなくなった人達がいるはずだ。彼らは何を見てそうなってしまったのだろうか。もちろんそれは人それぞれだろう。何と決められるものではない。
速度を競うスポーツ選手は、毎日同じゴールラインを目指して競技を続ける。ひたすら繰り返されるその光景に、ほとんど差はないと思う、しかし確実に変化を実感する時もあるだろう、例えば、自己記録を更新する瞬間だ。いつもと異なる感覚で近づいてくるゴールラインへの光景は、たぶんその選手にとって日常から脱却する快感を伴うはずで、その経験が競技を続ける源泉のひとつだろう。これをやってきてよかった、という感覚は、進化への本能と触れ合うような、充実感に満たされる経験と言えるかもしれない。
創造行為にそれが当てはまるかどうかわからないが、何かの拍子にそういった快感等を味わったがために、作者がやむにやまれず制作に向かう行為へと、繋がってしまうことはあるだろう。食べるためとか精神の浄化とか色んな飾りがそこに纏わり付いたとしても、全てはぎ取った中身は、なぜか没頭せねばならない感情が残るだけだ。
村上隆が「アートの世界は、50人くらいのプレーヤー(アーティスト、コレクター、ギャラリスト、キュレーター等)で動かされている」とどこかで話していた。お金の動きや彼の視点からすると、事実なのかもしれないが、うなずけない言葉だった。その選ばれし50人に入る熾烈な戦いは、そのまま蜘蛛の糸を上るカンダタの姿ではなかろうか。僕は、冒頭の保坂和志の言葉が、やたら輝いているように思える。できることなら、彼のように「作品を作ることで~」となりたいが、現在自分にその実力があるかどうかは疑わしい、であれば制作を通して創造の流れを見つめ、その進化を体験してみたいとは思う。残るか残らないかは自分で操れるものではない。