森の人

06 29, 2010
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zoo

06 28, 2010
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06 24, 2010
部屋の表情を作っていた様々な物達は段ボールに納まり、それらを引越し屋さんが次々運んでいく。その手際の良さは実に見事だ。本がギッチリ詰まった段ボールなど、僕は持ち上げるだけで精一杯なのに、彼らはそれを2個単位で抱え、走る「ちょい重も」とか言いながら。そしてそれを速度を保ったまま続けることができるのだ。いったいどういうパワーなのだろうか。
5年ほど暮らした空間にこびり付いた自分らしさのようなものが、荷物が減っていくごとに剥ぎ取られ、当然なのだが、ここは借家なのだと思い知った。2~3時間経っただろうか、何も無くなり表情が消えた空間を見て、初めてここを内見した当時の気分を思い出した。徐々にこの家での動きを体が覚え、自分と家が一体化していく感覚は、地に足を着けて地面を踏みしめて歩くようで気持ちよかった。しかし、再びここはリセットされたようだ。もう娘の落書きが昔の傷のごとく残るだけだ。

たぶんこういう感覚は古い人間なのだろう。時代の空気は、所有に価値を求める行為の終わりを告げつつあり、今後はレンタル対応での生活が主流になるように思う。蔵書のデジタル化が流行っているようだし、物を持たないことでの身軽さがカッコイイことになるのだろう。家などその最たるもので、どんどん新しい物件に乗り換えていく借家スタイルが多数派になるようだ。家具のレンタルもあるようだし、自分のモノという概念自体が消えていくのかもしれない。自分のモノを持たないというリスク回避の生き方を否定する気は毛頭ない。ただ、初めて所有した土地に建てた家の窓から、空がよく見えるのだが、その空が自分のための空に思えて仕方がない。初日の明け方の空を僕はその窓から2時間ほど眺めていたのだが、初めて見るような新鮮な光だった。大きな物を所有することで、本当に必要な物とそうでない物の差が、これから見えてくるのかもしれない。所有しない漂う軽さは気持ちいいが、大地に根を張る覚悟も重要ではなかろうか。腹も据わる。
土地に人が根ずいたきっかけは、狩猟民族から農耕民族に変わったからとか色々あるが、その理由のひとつに、死者を埋葬する行為がきっかけなのではないかと、吉村昭が何かの文章で書いていたように思う。その埋められた人から、生きている人達が離れられなくなったのか、どうなのかはわからないが、親なり子供なり仲間なりが地中にいるその場所で、生活を続けたいという思いは、何か納得できるものがある。
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家を作る

06 19, 2010
自分の家を妻と借金して作った。もちろん設計は自分でなく建築家で、実際の作業は棟梁や様々なその道のプロの方々で、僕は何をしたかというと収納の床塗りくらいだ。やっていたことのほとんどは、提示されてくる計画に対しての物言いであり、現場の苦労を知らない素人の勝手な希望を羅列していただけだ。いい身分だ。そんな経験は今後もうないだろう。
妻がその人間離れした検索技術で探してくれた、その設計事務所の方々は素晴らしい人達だった。僕は波長の合う人が少ない内向的な人間で、明るくハキハキしたオシャベリな人が苦手で、その建築スタイルどうこう以前に、うまく付き合えるのかという問題があった。できれば大御所でも若手でもなく、年齢が近く価値観を共有できる人が理想で、トップセールスマンタイプでなく、なんとなく暗めな人であって欲しい、という思いがあった。初回のプレゼン時、決して手慣れているわけではない絵をみせながら、彼のコンセプトを誠実に語ってくれる姿は、この人を信用してもいいなあと思わせるものだった。「狭く長い路地を通り玄関の扉を開け、光が漏れる階段を登ると大きな窓を通して、さらに明るい空間にたどり着くというイメージです」という彼の言葉は非常にわかりやすく、想像が膨らむプランだった。オープンハウスに訪れたご家族が、階段をあがってくるにつれて感情を漏らす声を聞くと、そのコンセプトはそのまま実現されたように思え、いい人と出会えていたのだなあと実感した。
スタート時の大筋は、その所長がやってくれたのだと思うが、ほとんどの細かな実作業は、若い女性社員が担当してくれた。打ち合わせの多くはこの方と進めた。つまり多くのディティールは、その女性と妻の掛け合いであった。妻のツボ探しが、その社員の影の任務だった。僕が口を挟む余地がなかったわけではないが、そこまで深く細部を考えていない人間にとって、そのこだわりに対して持ち合わせている言葉などなく、「いいと思います」以外の台詞を思いつけなかった。あるモードに突入した女性達には敵わない、と素直に実感した。正直そこまでこだわらなくてもいいのでは、と思う時もあったが、神は細部に宿るというけれど、その細かな集積が結実する空間は見事だった。こんな家に自分が住んでいいんだろうかと思う出来映えで、妻はその社員に「パーフェクトです」と感想を伝え、その社員さんが過労であろうものもらいの目を見開きながらも、うれしそうに笑顔をこぼしたシーンが印象的だった。何かを解り合えたふたりがそこにいたように思う。
家の中に、光量の変化や空間の大小、天井の高低差といった様々な要素が絡むことで、視線が躍動する感覚を日常体験できることは、実に贅沢なことだ。僕はよく考え込んでしまうのだが、この家にはウツクツさせない空気に満ちていて、これから僕自身がこの家に引っ張られる気がしている。そしてそれは自身のペースを崩すものではなく、眠っている力を引き出してくれるものであるように思えて仕方がない。とはいえこの文章は、明日に引越しを控えて、段ボールに埋もれた状態で書いている。次に自分がどんなことを思うのか、解らないことがうれしい。ただ雨は止んで欲しい。
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段ボール

06 12, 2010
脱皮や変態という経験をヒトである僕は体験できない。その内側に蠢く変化の兆しに従い、体全体を入れ替えるその大胆な行為は、いったいどれだけの恐怖と体力を伴うのか全く想像できないが、問題なくそれが達成された時、彼らはものすごい快感に包まれるのではなかろうか。まあそんな感情は蛇や蝶にはないと言われるし、きっとそれが正しいのだろう。
何故そんな想像をするのか、理由は来週引越しするからで、その準備に伴う地味な段ボール詰め作業をなんとか肯定的に捉えたいと思ったからだ。しかし、僕はいったいどれだけの物を引きずって生きているのだろうか。収集癖はないし、無駄使いもしない方だと思うのだが、たぶんこの量は普通でない。本当に持って行ってくれるのかと、心配するほど様々な物を捨てているのだが、未だに進行具合が見えてこない。身軽に生活できる人の軽やかさを尊敬する。途中でやめることが許されない「脱皮」を始めてみたけれど、ちゃんと最後までやり切れるのか不安だ。

普段使わない体力、あるその時まで出番を待つごとく使用されない力というものがあるように思う。地上の植物達が枯れ果てる時を待ち続け、山火事後に発芽する種子のようなもので、僕の場合ひとりで海外へ行った時にその力を味わった。言葉も解らず、知り合いもいない環境で心細くなるわけだが、何日か経つと自らの好奇心が頭をもたげ、急激に活動を始めたことを思い出す。その内側から沸き上がる力は未経験で、自分にこんな力があったのかと不思議に思う程だった。環境の変化がもたらす影響は様々だが、環境に対応して活性化する己を知ることは、生命力の実感と繋がるはずで、僕もなかなかのものじゃないかと思う反面、自分が自分でないような得体のしれなさを思う時でもあった。
家という環境が、そこに移り住む者達をどれだけ変化させるのかは総括できない。ただTVのリフォーム番組は、必ず住人の笑顔でラストシーンを構成しており、その表情は彼らの生命力の活性化から滲むもので、ただの笑顔ではない。家の劇的な変化の面白さ以上に、住人の顔つきの変化が魅力的だろう。そしてそれが多少の美化を伴うが、蝶に変態した芋虫の気分に通ずるように思えたのだ。
僕も蝶の気分を味わえるのだろうか。段ボールに囲まれた現在の状況は、間違いなく芋虫気分なのだが。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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