まとめる

05 29, 2010
進めているシリーズ作品が思う量に達し、まとめる作業を経て先日ほぼ完成した。もちろん今後も続けられるが、一度区切りを付けるべくセットも全て解体した。作品のスタイルは今回も写真なので、最終形はプリントであり、データ作成ではない。ただ僕の場合プリントは外注なので、シリーズ全ての作品がプリントされることはまずない。つまりなんらかの展示や購入要請があった場合、そのつどエディション内で焼き付けられる。今回は展示予定がないので、ここで言うほぼ完成とは、撮りためたそれぞれの写真の分類とナンバリングが決定し、ひとつのシリーズとしてデータ上まとめられた、ということにすぎない。思えばこういう完成の仕方は、立体を制作していた時代にはなかった。制作とは実物を作ることで、完成とはそれがそのまま仕上がることであって、それ以外ではなかった。まず展示が決まった状態で、制作は始められ、身動きできなくなる程作品で部屋が埋まる頃に搬入で、今度はそれらがまるごと消え去った空間と同調し、自分自身も空虚になる、という経験を繰り返していた。
そして、写真に出会いそのスタイルが劇的に変化した。かなりの物理的束縛から解放された。しかし、そのスタイルで何度か展示経験を積むとそうでもなかったことに気づく。展示用にプリントされるということは、そのまま額装なり何なりの加工を伴うことで、今やストックされたその量は無視できない。今回もデータができたからといって気軽にプリントはできない。もちろん何枚かは、そのサイズイメージやトーンの確認用でプリントしたが、展示が決定していない状態で、本番のプリントをすることは、場所や金額の問題があり簡単ではない。これが、どうも最終的な決着を見ずに放置する感じで落ち着かない。つまり「展示」という行為が僕と作品にとっての最終結論であったようだ。しかし今後その機会が随時訪れるとは考えずらい。そこで、自分なりの決着方法をみつけるべく本にしてみた。iphotoのブックサービスを利用し先日それが手元に届いた。どうだったか、やはり途中という感じで最終形とは思えなかった。作品を見直すという意味では機能するし、なんだがまとまった感じはあるが、部屋を侵略していた作品達が一挙に展示空間に移行し、何もない部屋に取り残される感覚からは、ほど遠い気分なのだ。僕にとってあの抜け殻のような思えば寂しい体験が、ひとつの完成を感じる必須要素だったのかもしれない。しかし、そういった視覚的、疲労度的な経験が完成の定義だとはあまり思いたくない。また人にみせることでの完成というのも頼りない。作品の完成とは作者の孤独によってなされるものであって、その孤独とは作者の外的な要因とは関係なく、シンプルに作者の行為の終点でなければならない。つまり作者はここで終わりという決着点を自身で知らねばならない。それは写真でも同じで、プリントしたからしないからではなく、「なんかわかる」という腑に落ちるものでなければならないのだろう。とても難しい問題だと思う。
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風格

05 25, 2010
IMG_6770.jpg
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BAKA

05 22, 2010
新人の頃、様々な場で芸をやらされた。バニーガールになったり、小麦粉をかぶり日本酒を一気飲みして二重飛びを続けたりした。実に下らない。しかしそういう馬鹿を人前でする時は、とにかくやり切らねばならない。変に恥ずかしがったりすると、見ている側も居たたまれなくなり、お互いにつらくなる。困るのは、そういった二度とやりたくない行為に付随する羞恥心を克服すると、妙な達成感を得られることだ。つまり、芸人が考えられない無様な行為で笑いをとる時、もちろんためらう思いを踏まえてその行動に踏み切るのだろうが、それ以上の充実感を確実に味わえるのだろう。馬鹿なことほど全力でやる必要がある。

「絵バカ」というタイトルが付いた会田誠の展示を、会社の近所に引っ越してきたミズマアートギャラリーで観た。立派な空間を新設したらしく、その重厚な扉を開けて最初に目に入る作品を観て、ああ会田誠だと思った。もう大御所なんだし、こういう作品を作らなくても充分やっていけるだろうにと思うが、たぶんやらずにおれないのだろう。北野武がどこかで「最終的には食い逃げとかで捕まりたい」と言っていたが、何かを頂点までやり遂げたけれど、そういう積み上げたキャリアを崩したあげく、笑いに転化しないと落ち着かない、という人種がいるのだろう。別に「真面目で立派な人」でいいのにと思うが、それは恥ずかしい行為をする以上に、彼らにとっては恥ずかしいことなのかもしれない。昔、会田誠の「青春と変態」を読んだ時のヤバイ共感は既に遠い出来事で、新作を観ても戦略なのかコレクターのオーダーなのかわからないが、作品からそういう背景が透けていて、いまさら何の感動もないが、その手数に顕現する行為自体の真面目さだけは、観るべき価値を有しているとは思う。
保坂和志は小説を書く際、無意識にシリアスな方向に文章が流れることを徹底して避けるらしい。徹頭徹尾だらだらした流れを維持すべく努力するらしい。たぶん絵画も同じで、自然に生まれる深刻になり重厚になりという流れの前段階で踏み止まり、意を決して能天気なままの状態を維持できるかどうか、さらにそこに意味を持たせず、無意味なまま馬鹿でいられるかどうかに、勝負をかける必要がある人もいるのだろう。凄さをアピールするようなキザな要素を排除し、どこまでも馬鹿を貫く姿勢は、好意には繋がらないまでも見事なのかもしれない。そしてなにより嫌悪感からの注目がたまらなく好きで「変態!」と言われることが、彼にとって最高の褒め言葉なのだろう。普通あの作品は笑えない。
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プレゼン上手

05 18, 2010
広い空間はそれだけで気持ちよい。高い天井はそれだけで面白い。
自分が意識できる空間エリアという感覚があって、それが壊れるような場所に足を踏み入れると、いきなり身体のフレームが消え去り自分が感じている引力が弱まる気がする。これは雄大な自然を前にした時にも感じるが、人工物でも充分それを味わえることがある。以前直島の地中美術館で観たモネの部屋は、空間自体を感じさせない工夫が随所にあり、実に幸福な鑑賞ができた。どういう意味をそこに持たせるのかが、いかに重要なのか思い知った。もちろんその展示物の内容が最も優先されるべき事柄ではあるが、そのものが置かれている場所が気持ちよければ、多くの展示物は実力以上の効果を発揮するように思う。
先日IKEAへ行ったのだが、なんだかどれも良い商品に見えた。心が解放されるような空間に家具が並んでいるのだが、実におしゃれに見えるのだ。もちろんおしゃれなものが多いのだが、なんとなく騙されているようにも感じた。椅子など実際に座ってみるとそれほど快適でもなかったりする。しかし、これはそれを買おうと意識しているがゆえに感じる微妙な違和感であって、なんとなくいい気分になりながら座ったとしたら、ほぼ心地よく感じるに違いない。別にIKEAが悪いのではない、逆に上手なプレゼンだなあと思う。家具を魅せることを熟慮した結果がこうなのだろう。ただし、その商品が実際に自宅に置かれた時、ここで感じた以上の快感を味わえるだろうかと思ったのだ。
レストランエリアには様々な椅子があった。低いソファや高さを強調するバータイプの椅子もあり、高低差を上手に使い分け空間を演出していた。もちろん天井は高く、テーブルを照らすライトの高さも様々で飽きない。そこでミートボールを食べながらビールを呑んだ、とっても幸せな気分だった。まあ初めて行ったからでもあるが、視界に入ってくる情報がいちいち新鮮で、どんどん乗せられていく快感を久しぶりに味わった。なるほどなあと何度つぶやいたかわからない。
どう見せるかばかり考えた展示は、時に空虚になりがちだが、あきらかに心配りがない展示を観た時の不信感も無視できない。作品と空間がガッチリ決まった展示を観た時の充実感は、身体そのものが持っていかれる感じがする。そういった展示を作りたいと切に思う。
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作品体験

05 15, 2010
それまでの知識や経験を無にされ、底が抜けたように自分が翻弄される驚きは、作品と呼ばれる表現手段から得られる刺激的な体験だと思う。しかし最近足が重くなった。端的に言うと展示を観る行為がほとんど確認作業なのだ。「まあ本物は観た、けれどネット画像と大差なかった」という結果が実に多い。とりあえずの情報として知っておくことと、その作品を体験し咀嚼することは全く別の行為になる。確認作業とは、本物と対峙してもそれを情報としてしか認識しないことに他ならない。観光名所で写真を撮る旅行者のようなものだ。どうしたことか。事前にそれが誰のどういった展示なのかを調べてしまい、白紙の状態で向き合わないことが問題かもしれない。その場合仕入れていた情報とその本物の間に、どれほどの差異があるのかを確認することで終わってしまう。本来作品を体験するとは、そのようなことではない。
あらすじを知ることと、その本を最後まで読み通すことは、全く別の行為だ。同様に映画の予告編を観てその批評を0円で読むことと、その映画をDVDで200円で観るのと、映画館へ行き1800円で観るのは、全て違う行為だろう。なんとなく知った気分になることの恐ろしさを思う。何かをまっさらな状態で味わうリスクを避けているのだろう。なぜか、時間がないからお金がないから勇気がないから等どれでもいいが、そこへ踏み込まないことには、冒頭の自分が翻弄される喜びなど体験できるわけがないのだ。情報を処理するように作品を知るのではなく、制作者の追体験をするつもりで作品に飛び込む覚悟がないといけない。それはしんどいことだが、楽になにかを手にしたところで、それらは全てこぼれ落ちてしまう。情報は更新することに意味があり、ストックしておく価値は低い。真摯な体験の蓄積と、知識としての情報処理ではその厚さが違う。自分にとってどちらが大切なのかその時々で異なるだろうが、とりあえず、事前の画像情報は見るべきではないように思った。知るということがそれほど重要ではないのかもしれない。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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