目の力

04 25, 2010
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ふさわしい場所

04 22, 2010
その他大勢の中そこに座り、上長の話を聞くという会議でいつも考えることがある。それは、僕はなぜこの会議に出ているのかに始まり、なぜこの会社にいるのか、なぜこの仕事をしているのかに至るのだが、答えもなんとなく出ていて、僕の能力レベルで頑張った結果ここにいる、というものだ。ただその不思議な繋がりを反芻してしまうことがやめられない。

人間は必然的に、その人にふさわしい場所へ流れる傾向の中にあると思う。
脱線するが、中学生の頃M君という同級生がいた。彼の凄さは他の生徒を圧倒し、たぶんみんなそれを心から納得していた。成績は常に1番で走れば誰よりも速く、リコーダーのテストでは皆がその音色にしびれた。当時、太さが誇張された妙なズボンを履くのが主流だったが、彼はずっと学校指定の標準ズボンで通う行為を卒業まで貫いた。先生が作成するテストの模範解答はM君の解答をコピーすることだった。つまり教師の解答を越える答えを彼は書いていた。性格も歪みなく目立つことを避けていて、不良からも先生からもPTAからも、もちろん普通の生徒や目立たない生徒からも愛され、読んでいた本はアインシュタインの相対性理論だった。また文化祭で「生まれ変わるのなら誰になりたいか」というアンケートで、あらゆる歴史的偉人やスターを差し押さえ、女子も含めた生徒の約7割が「M君になりたい」と答えた。M君の素晴らしきエピソードは終わりがないのでもうやめるが、ひとつ覚えているのが、大抵ひとりで帰宅していたことだ。高貴であるがゆえの孤独を凡人の僕は未経験だが、彼はそれをひしと感じていたに違いない。そして、たぶんそれぞれの学校には、彼のような孤独な思いを秘めた輝度の強い逸材が一定数いたのではないかと思う。そしてその人達は成長と共に、彼らにふさわしい場所へ流れて行ったのではないか。イチローが甲子園で活躍しプロ野球で記録を残し、そのうちメジャーで殿堂入りするように。山崎直子さんが東大へ行き、お母さんになり、NASAへ行き、宇宙へ旅立ったように。稚拙に例えれば、玉石混合の玉は玉で集まり、石は石で集まることが必然、もしくは運命ではなかろうか。そしてその中でも再び玉と石に分かれ、さらにそれぞれが集まり、を繰り返し現在に至るということだ。
冒頭の会議中怒られそうだが、そんなことを考えた。つまり僕の成長過程の行き着く先が、今のこの会議室に至るのだろうなあと思ったのだ。あたり前といえばあたり前だ。

試験の点数で僕がつまらぬミスを連発していた時、父が諭してくれたことがあった。本当のライバルは見えないところにいる、と彼は言った。つまり実力が拮抗するレベルを全国模試などで例えた場合、同点の人が何人いるかという計算をするらしい。ここで1点多く取るだけで順位がどれだけ変わるかを考えると、確かに微妙な差で何百人か並んでいそうに思える。
父の言いたかったことは、細かい点数を馬鹿にするな、その怖さを知れ、ということだが、少しアレンジすると、広い視点で見た時に同じような思考を持つ人は、側にいなくても世界的にみれば一定数いる可能性がある、とならないだろうか。そしてさらに、人が成長しその進む過程で出会う人が、より自分に近しい存在である可能性が高いと考えるのは乱暴だろうか。年齢性別関係なく出会うべくして出会う人の流れが、本人の意志ではなくその生命体レベルとして繋がり合う必然があるように思えてならない。しかしこれは運命が変わらないというのではなくて、力を入れて何かを続けることで、よりそれを助長してくれる存在と引き合えるかもしれない、ということだ。類は友を呼ぶとは微妙にニュアンスが違う。
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おぞましい場所

04 17, 2010
随分昔に訪れたその場所は、夏の青空と緑の木々と赤いレンガの建物が調和する美しいと言ってもいいような空気に包まれていた。暗く重い何かが充満しているおぞましい場所を想像していたのだが、その建物内部の展示物と空間を横切る有刺鉄線を見ない限り、そこは平穏な場所だった。

「夜と霧」V.E.フランクル 池田香代子 訳(みすず書房)
心理学者である著者の強制収容所体験を綴った超がつく有名な本。その重そうな内容もあって手を出しづらかったのだが、新訳が発売されたのを期に購入した。凄惨なナチスの行為が容赦なく続く中で、なぜ生きられたのかを分析する著者の言葉が生々しく、それは今でも充分通用する理性に満ちている。彼の記述に、強制収容所内で最も残虐な行為を続けた人間は、カポーと呼ばれる収容者を管理するユダヤ人達であり、ナチスの人間ではなかった。という箇所がある「どちら側かではない、まともな人間とそうでない人間がいるだけだ」と語る所以なのだろう。ただ本の内容をここで細かく紹介する気はない、それは体験者である著者の言葉から直に読み取るべきだと思う。ここで書こうと思うのは、著作を読むことで思い出した自分の体験にしたい。

学生の頃心酔したクリスチャン・ボルタンスキーという作家がいた。膨大な古着を空間に敷き詰めたり、遺影的な写真で祭壇のようなものを作り、それらを闇の中に配し光をあてる幻想的なインスタレーションが彼の代表作なのだが、当時の僕はその重厚な雰囲気にすっかりのぼせていた。1979年に負の世界遺産に認定されたアウシュビッツは、現在ポーランド国立オフィシエンチム博物館として公開されている。そこに並ぶかつて収容所だった建物内部に様々な展示がある。それを展示と呼べるのかわからないが、僕がそこで目撃したものは、退色しきった灰色の「山」だった。それらは、犠牲者の靴であり、眼鏡、鞄なのだが、建物内部が暗く窓からの光はその「山」の一部にしか届かないため、その頂点は遠く暗く霞んでいる。別の展示では、犠牲者のポートレイトが壁一面に隙間無く掛かっていた。年齢性別に関係なくそこに多くの表情があった。思いを消し去った大人もいれば、はにかむ子供もいるわけだ。ただ見上げるしかない「山」や、どこまで歩いても終わらないこちらを見つめる壁一面の顔と対峙する経験は、間違っても気持ちよいものではなく、言語化できない初体験というしかないが、これを見た人と見ていない人で人種を二分できるのではないかと思うほどに、重い経験だった。
クリスチャン・ボルタンスキーへの憧れは霧散した。彼はこの事実を舞台セット的にアレンジしただけだった。セットはセットでしかない、事実としての強度に対抗できるわけがない。そして無知ゆえの勝手な憧れほど、手に負えぬものもない。犠牲者の目を見て自分の目が醒めた気分だった。建物の外へ出ると、戸惑うほど鮮やかで静寂な光景が広がっていた。そのギャップはにわかに受け入れがたいもので、雨でも降ればいいのにと思ったことを覚えている。
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祖母

04 10, 2010
先日1910 年生まれの祖母が100歳になった。どういう感覚なのだろうか。厳しい時代を経験したからこそ、長生き出来るとはよく言われるが、マイペースを守り日常をクリアーしているうちに100歳になったわけではないだろう。思うに祖母の凄さは、極度の心配性というその性格にある気がする。それは、祖母の教えを継承する母を見ればあきらかで、僕の場合一緒に暮す期間は19年で限界だった。母の価値観の絶対性は決して曲げられたことがなく、確かに正しいのだが、それを押し付けられる俗性の高い人間には堪え難いものがあり、その傾向は食事の好みによく現れた。目を剥く薄味や徹底したヴェリーウェルダン、猛暑での温い牛乳などが母の定番だった。刺激物や生もの、冷たい物を食す行為は、まるで悪事のような扱いだった。もちろんお酒も飲まない。理由はお酒で失敗したからだそうだ。しかし、母の「グラスワインを飲んで、廊下でふらっと壁にもたれてしまったの」という逸話からは、どこが失敗なのか到底理解できない。以後母は祝いの席で1センチくらいはビールをすするものの、基本的に養命酒しか飲んでいない。
母は祖母を尊敬し、言われたことに全く疑いが無かったようで、職業も結婚も勧められるままだった。逆に祖母は母を思いのままに育てた。この思いのままというのが重要で、要するにひたすら丁寧に無難に生きることを求めたのだ。母は家族に対し色々強制したが、それは自分に対しても同等だった。いわゆる我慢への抵抗がなく、それはあなたにとって快楽なのか、という程に欲を嫌悪していた。薄味も温かい牛乳も子供の身体を思ってのことなのだろうし、僕は母がだらけているシーンを見たことが無い、たぶん母も同じだろう。
何が言いたいのか、つまり祖母こそが極度に禁欲的で慎ましい生活をしてきたのだろうということだ。自分のための行動(遊ぶこと)などほとんどなかったのではなかろうか。ひたすら家族を思い子供を育てあげ、100歳になった。誕生日には何やら行政機関からお祝いが届いたそうだ。祖母は今でも孫を心配し、去年配偶者を亡くした娘(母)を慰めるべく電話をかけ、お金を送っていた。そういった人への気がかりと、比類無く保守的ではあるが真面目な思考が、100年以上祖母を生かしている原動力に思えてならない。
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タイミング

04 02, 2010
読みかけの本がありながらも買い足す性格なので、購入時期が不明かつ未読の本が、常に何冊か部屋に転がっている。その中の1冊を先日手に取った。本は読むべき時に読めばいいと考えているので、内容が頭に入らない時は、次のタイミングが来るまでよく放置する。これも最初の10ページ位まで、何の事かさっぱり理解できない文章が続き、その類いと判断し閉じようかと思ったのだが、そこから先が思わぬ展開になった。どういう状況で、僕がこれを買ったのかは覚えていないが、何か理由があって読まずに放置したのだろう。ただ、読み始めたのがなぜ今なのか、という偶然には驚く。この内容を僕が20代で読むのと40前にして読むことの差は大きいからだ。

「人生の親戚」大江健三郎(新潮社)
物語の多くは事件と共に話が進行する。その事件とは「変化」と置き換えてもいい。よくあるタイプとして登場人物達の恋愛や対戦や死などがあげられる。しかし、子供の自殺を経験する親の「変化」は簡単ではない。この話では、障害者の兄弟を持つ親が、それをどう受け止めて生きるのかが描かれている。
僕の読書時間は通勤途中が多く、それも睡眠を取りつつ読むゆるいものなので、この展開を全く予期していなかった者としては、いじめが原因で車椅子の生活を余儀なくされた利発な弟が、先天的障害を持つ兄に自殺を説得し、それを兄弟で決行するシーンを読み、電車の中で感情の整理がつかなくなり困った。そして、もっと困ってみたいとも思った。仕事がなければこのまま読書に没頭したい気分だった。まだ途中なので、そういう本があると日常が充実する。

贅沢だがこと本に関しては、その額を払える力があるなら出会ったその時に、思い切って買ってしまうことは大切かもしれない。すぐ読まなくてもいい。ただそれが本屋にあるのか自分の空間にあるのかで、その後手に取る距離が変わる。また、その時理解できなくてもいつか理解できる時が来るかもしれない。一度すれ違うとその貴重な機会は、ほぼ失われるのだから。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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