心して漠然と

01 28, 2010
考えることと考えないことを同時に意識しなければならない。

行為が単純な制作作業を繰り返していると、同じようなものばかり量産している気分になる。しかし、そこには厳然たる差異があって、ほとんどのものはよろしくない。それは、何十枚かに一枚どうしたわけか奇跡的な一枚が存在していて、そのレベルを標準にすると他は全てボツにするしかないからだ。何故その一枚が生まれたのか、何度も検討し状況を再現しシャッターを切るのだが、写っているものは全く別ものでしかなく理由も解らない。

自然に同じものは無いとか色々あるけれど、同じ行為を繰り返して生まれるものに、優劣のような差が刻まれている事実はどこか恐ろしい。人間も同じような行為の果てに生まれるが、その中に希有な人が必ず混じっているのだ。
僕がひたすら続けている作業は、この行為の繰り返しの果てに稀に現れる、特別な要素を含む偶然に出会うためといえそうだ。しかし、そんな効率の悪い状況は打破すべきで、意図的にその奇跡を生み出そうと考えるのだが、大抵無駄に終わる。そのもどかしさを実感するばかりだ。そこで体得したのが、始めに書いた矛盾する要素を同時に意識する行為になる。ただ漫然と作業するのではなく、心して漫然と作業するということ。結局どちらも同じなのかもしれないが、気分的にはテンションを下げない方向に持っていかないと、全てが無意味に飲み込まれそうになる、気楽で深刻な状態。
0 CommentsPosted in 制作

01 27, 2010
IMG_5441.jpg
0 CommentsPosted in 写真

ライオン

01 24, 2010
100123.jpg
0 CommentsPosted in 写真

Hollow

01 23, 2010
美意識の基本を、僕は高校時代に美大に入るべく通っていたある美術予備校で刷り込まれた。
天狗だったそれまでのプライドをへし折られた僕は、自分の下手さを痛感し、そこで上手な浪人のデッサンやら平面構成を見て、あのように描くにはどうしたらいいのかひたすら考えていた。そしてそれは後々非常に役立ったが、大きな間違いでもあり、簡単な問題ではなかった。当然だ。

仕事の移動の合間に、メゾンエルメスの小谷元彦の展示「Hollow」を観た。
ほぼ同年代で、ここまで成功した作家は彼くらいだと思うし、そのテクニックと完成度は他を圧倒していて素直に見事だと思っていた。ただ正直、彼のコンセプトよりもその作品を観ることで充分刺激を受けていた。どういうことか、つまり作品の醸し出すテイストが、予備校で刷り込まれた美意識と完全に合致していたのだ。いわゆる正確なデッサン力とかバランスよいレイアウトや配色など、こう描けばかっこいい的な理想が当時はあって(現在の状況は知らない)みんな基本ではそれを目指しつつ、自分なりの視点を入れ腕を磨いていたのだが、その意識で彼の作品を観ると実に感動できたということだ。コンセプトが吹き飛ぶ技術とセンスがそこにはあった。

しかし、今回の展示はどう受け止めるべきなのか。完璧な外見の女性形態を利用し、彼の言うオーラ、気配うんぬんのイメージを加えて完成とされたその作品は、ただ劇画を立体にして白く塗ったようにしかみえなかった。展示された作品の数、その大きさやバランスといった会場構成も教科書的で、全く挑発されなかった。彼の技術をもってすれば、白はもっと冴え渡る白にできたはずだし、といったつっこみ要素が見え隠れし、彼の立派な言葉が作品に受け止められずにこぼれ落ちているようで、いくらコンセプトを尊重したとしても、あの輝くばかりの技術とセンスはどこえ消えたのかと思うと残念だった。結果、それまで自分がどういった意味で感動していたのか、そのからくりに気づいた。
いや、そこは気づいていたのかもしれない。ただその驚愕するようなテクニックを観た時、よくある少女的な平面作品から受ける戸惑いがなく、やっぱり作品とはこういうものだよなあという安心感が生まれ、うれしかったのだ。

年末に森美術館での個展が予定されているらしい。その大きな空間用としてこの作品が作られたのかもしれないが、どうあれその個展は気になるところだ。やっぱり見事だと思わせてくれる展示を切に期待したい。
0 CommentsPosted in 展示

儚さ

01 21, 2010
内藤礼 
すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している
神奈川県立近代美術館 鎌倉

この人の展示を観ると、作るという行為やものを生産すること自体の意味を再考させられる。
会場のささやかな展示物が発する主張は、派手さや登場感とは無関係で、どこに作品があるのかもわからない程の儚さだ。まるで新生児の命のような印象を受ける。しかし、だからこそ見入ってしまう。そしてその作品を媒介として視界に広がる風景を見直す時、確実に自分自身のものの見方に変化が起きていることに気づく。これが楽しい。
補色残像ではないが、視覚に以前よりも繊細な力が備わり、見えていなかった何かが見えてきそうな気分になれるということ。そして内藤礼は、事実そのような感覚を持っている人なのだろう。草間彌生は、あの水玉模様が常に現実として見えるらしいと聞いたことがあるが、その体験はあまりしたいと思わないが、内藤的な感覚体験は是非味わいたいと思う。
彼女の作品を観ていると、作品それ自体の効果ではない、作品周囲の空気を巻き込むような強さや、背景としてしか見ていなかった空間の存在を知覚することができる。そして、そこかしこにある多くのものが、現実を満たしているという事実の再発見が、こんなにも新鮮なのかと思う。
中庭の空に揺らめく白いリボンや、川に反射する光を受けてなびいているビーズのラインは、実に美しい。しかしそれは素材の美しさではなく、風や光といった現象が持っている美しさを映し込んでいるからだろう。
ほんの少しのことがとても重要なのだと思い知らされ、自分がひたすら透明になっていくような感覚を味わえた時間だった。

今月24日まで。
0 CommentsPosted in 展示
プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ