問題点

01 19, 2010
プレイステーションにはまっていたことがある。今でもその可能性があって意識的に離れているのだが、なぜそんなに夢中になったのか明確な理由がひとつある。それは些細なレベルだけれど、自分の進歩を実感できたことだ。
どうしても倒せない敵を倒すべく情報を集め、時間を使い技術を磨き同じことを繰り返し、その敵に倒され続けることで生まれる諦めの境地に至るある日、突然その時間はやってくる。敵を倒した自分がいるのだ。コントローラーを握りしめたまま呆然と次の展開を眺めつつ、勝った実感を噛み締めるのは至福だった。こんなに解りやすく能力の成長を凝縮している事実はあまりなくて、やめられなくなってしまうのだ。そして大切なことを放棄してまでも、ゲームを続けてしまう自分に危険なものを感じ、離れることにしたのだった。

進めている作品において、あるイメージが頭の中でできあがっていて、それを形にするべく、いくつか方法を考え実行しているのだが、そのどれもが失敗続きで、思い描いたイメージになかなか近づけない。この時必要なことは、新しい方法を試し続けることでしかない。そしてそれは、考える余地を広げることから始まるように思う。つまり、考えていることを吐き出すということ。新しいアイデアが出ない場合は、今あるアイデアを一度仕上げてしまうことが必要に思う。そしてスペースを作るのだ。
いわゆるできる人は、実行する前にその問題点に気づけるのだろうが、僕は残念ながらそこまでの力がないようで、ここを意識しておかないと問題点を予想することが、行動の制御に繋がってしまう。

新しい方法が浮かぶ時、「どうして最初にこれを思いつかなかったのか」というもどかしさを感じるが、それは失敗の数が足りなかったためだろう。単純な経験不足なのだ。問題点を明確にするためには行動し経験を重ね、そこを土台に考えるしかない。
実現可能な着地点はそこからしか見えてこない。
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嫌悪感

01 14, 2010
僕はロンブーの淳が嫌いで、どちらかといえば民放よりNHKが好きで、どうやらPTAみたいな価値観があるようなのだ。これはたぶんよいことではない。
制作において、臭いものに蓋をしてはいけないし、キレイにまとめてしまうことは悪いことで、壊すべきところでは踏み止まらずに突き進むべきなのだが、なかなかそれができない。当たり障りなく丸く収めるような態度はよろしくない。(ロンブーの淳や民放が、それを実現しているとかではない)気がつくと、どうしたらまとまるか、筋が通るか、美しくなるか等々、考えていたりする。ここに気を取られると作品本来の意味が薄れてしまう。

「わたしたちに許された特別な時間の終わり」 岡田利規(新潮社)の登場人物は、たぶんロンブーの淳に抵抗を感じないだろうしNHKより民放を見るタイプだ。彼らは僕を仲間にはしないだろう。僕も彼らのような生き方に興味はない。主人公が限定されず、その全員に感じる魅力もなく、ゆるい諦めを孕んだまま若さを垂れ流している話に、僕はしばらく嫌気が隠せなかった。しかし、そうせざるような生き方しかできない人もいるだろうことは理解しているつもりだし、延々と続く彼らが彼ら自身に語る言葉は、ひたすら軽いが嘘はないように思えた。
そして、一人称としての語り手を登場人物に合わせて次々にシフトさせていく手法は、ページをめくらせ続ける力があったし、彼らへの仕打ちのような、美とかけ離れた描写で締めくくられる結末部分は実に鮮やかで、こういうことができないといけないんだよなあ、と素直に思うしかない。
物語に作家が埋没してしまい、ストーリーや主人公を追うだけの小説は多いのだが、岡田利規はストーリーや主人公の設定をほぼ消すことで、逆に作品としての意味を薄めずに、彼の意図を浮き上がらせているように思えた。
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練習

01 10, 2010
小学生の頃、嫌々少年野球チームに入っていた。もちろん自分の意志ではなく、体が弱かった僕を鍛えるために親が入れたのだった。今思い出しても随分真面目なチームで、ほぼ毎週土日は練習か試合だった。当時の僕はそれなりに一生懸命やるのだが、上手な子供はたくさんいて必ず補欠扱いだった。試合はいつも応援で、夏は暑い中冬は寒い中、ただチームメートがピンチを迎えようが負けて泣いていようが傍観するしかなかった。どうしてこんなことに時間を使わなければいけないのか、考えてもよさそうなものなのだが、当時の僕は足りなかったのか、ひたすら親の言われるまま監督の命令のまま、真面目に練習し応援していた。自分の意志がそこに入ることはなかった。つまらないとは思いながらもボールを追っていた。

しかし、高校や大学でなんとなく野球をやる時、僕はそこそこ役立てる人材になっていた。下手でも毎週10時間位は練習していたのだ。ボールの投げ方や捕り方は知らぬ間に身に付いていたようだ。この時期になって初めて、意味がなくもなかったのだなあと思った。考えてみると高圧的な人への対応や単純な我慢の仕方、挨拶が人に与える効果などは、ここで学んでいたのかもしれない。そしてそれらは大人になると意味を持つ。
意志の尊重が、必ずしも良い結果に結びつくのかどうかは解らない。特に子供のそれは、その場での快楽が最優先だろうから、こと学習に関してはもちろん程度はあるが、嫌々でも相当意味があるのかもしれない。

やらされている感が強いものである時、大人は大抵それから逃れようと頭をひねる。しかし、それが今後どのように結実するかは予測できない。当事者は現状の地点からしか周りが見えない。視点が変化した時でしかその効果は見えてこない。これは子供に限った話ではなく大人にも当てはまるのだろうか。ただ、納得できない状況下において、現時点で見えていること以上の何かが、その境遇には内包されているものだ、と期待してもいいのなら、深刻な現状であってもそこに楽観的な視点を加えられるかもしれない。
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いかがわしい

01 08, 2010
役者をやりながら別の商売をすることで、役者としてのスキルアップもできるのだ。
両輪で動くことは確かにどっちつかずではあるが、別の仕事を持つことで別の役者との差別化ができるのだ。等々、後ろの席の人が大声でしゃべっていて、ひとりの女性を何かの仕事に勧誘していた。会話の端々に「ネズミ講と言われ続けることで強くなる」とか「もっと気楽に、考えすぎないで」や「月30万円の定期収入はいいものだ」といったヤバそうな言葉がちらついていて、聞かされている人がよほど不安な表情をしたのか、今度は翻すように「○○君は、この仕事をやり始めて大河ドラマが決まったし、海外CMにも出られるようになった」という方向に走り始め、最終的には「どんな大舞台にも動じないメンタル面を強化できるこの仕事は、役者を志す人にとって最高のものだ」ということになっていた。

これは、約束の時間まで余裕があり、時間をつぶすべく入った喫茶店で聞いた会話で、始めは聞き流していたのだが、大きい声のせいでもあるが、徐々に笑えなくなってしまった。それは、僕も彼が話している内容と似たようなことを、自分自身に言い聞かせていたと思う部分があり、こういった話は外側から聞くと、実にいかがわしい印象を受けるのだなあと感じるしかなかったからだ。たぶんあの喫茶店にいた客の多くが、「その話にはのらない方がいい」と彼女に念じていたに違いない。

こと芸術というのは、その途上ラインにいる名の通っていない人間にとって、世間はまだ警戒感をもっている。職業は?と聞かれて「芸術家です」とはそうそう言えるものではないし、言ったところで状況の好転を期待はできない。
そんな覚悟だから大成しないのだ、と言われてしまうのかもしれないが、僕はギャラリー関係の人と話す時と、いわゆる一般の方々と話す時に、自分を分けている。その方が不協和音が起きないからだ。言ってみればいかがわしさを消す方法なのだが、喫茶店での話を聞いてみると、そんな状況によって態度を変える人間よりも、一本道を突き進んでいる人として不器用に生きている人間の方が、どんな仕事をするにしろ、よっぽどいかがわしさを感じさせないのではないかと思えた。
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へこむ

01 05, 2010
根本的にわかっていなかった、ということが時々ある。もしかすると、指摘されないだけで頻繁にあるのかもしれない。僕の至らぬ部分の話を聞き、確かにそうだと思い、自分の貧しい人間性を実感すると、この年まで何をやってきたのだろうとへこむ。

15年程前、仕事場に同期が3人いた。その内1人は女性で、彼女はもう1人の同期とつきあっていて、僕はその同期の2人の関係を8年間知らなかった。3人で行動することも少なくなかったと思うのだが、全く気づくことができなかった。
ある日、男性の方の同期と一緒に仕事をしているテーマが片付き、呑みに行くことになった。そこで「実は結婚することになった。」と言われ、「それはおめでとう。」と返した。年齢的にも全く問題ないし、付き合っている女性がいることも知っていたので、不思議な点はなかった。しかしその後、「任田(僕の名)も知っている人だよ。」と言われたのだ。これには驚いた。仕事場には女性が何人かいるので、その可能性もあるのだろうが、完全に思い当たる人がいなくて途方にくれていると、彼の口から「実は同期の○○さんなんだ。」という言葉が出てきた。その時、こんなに人は驚けるのかと思うくらいの衝撃を受けた。さすがに同期だし、2人のことはある程度知っているつもりだったのだが、「つもり」だけだったようだ。僕は何を見てきたのかと思った。生きる上での大切な視点が、僕には完全に欠落しているのではないかと、悲しくなった。(明らかに欠落しているのだが)
しばらく人間不信になり、男女が並んでいるだけで、つきあっているのだろうか?と自問自答する日が続いた。正直に言えば、もうその同期夫婦には子供も2人いるのだが、僕の中でまだよく消化できていない。

この年齢になると、大抵のことに対する見方や対処法が決まってきている。しかし、それは自分にとって都合がいい見方であるだけで、それが当てはまらないこともたくさんあるのだ。そんなことは当たり前でわかっているつもりなのだが、未だに僕はわかっていないようなのだっだ。困ったことだが、今からでも考え方を修正する必要は多々あるようで、それができないと先へも進めない気がする。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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