複数のターゲット

04 02, 2012
春休みの子供向け映画を制覇するつもりはないが、ドラえもんを初めて映画館で観た。この国民的キャラクターを使用した映画の仕事は、相当ハードルが高いのだろう。つまり1本の映画の中に、複数のターゲットを満足させなければいけないノルマが見える。例えば、ピンチののび太くんを救う役目が、ドラえもんではなくジャイアンにあることや、悪者に拉致されたスネ夫が「きっとのび太は助けに来てくれる」と強がるシーンは、大人にとって普通に想定内の出来事なのだが、小学校低学年レベルまでの児童にとっては、これが衝撃の行動だったりするわけだ。普段あんなにいじめを繰り返すこのふたりに、これほどのび太への友情があるなんて、とか思うのだろう。そういう周知なシーンにおいて、休日に子供にせがまれ付き合わされる親達は、ただただ眠いだけだ。逆に終始のび太くんと行動を共にした、意味深にのび太くんそっくりなキャラが、子供時代のお父さんであるということに関しては、正直子供達はどうでもいいと思っているはずで、ここのターゲットは親サイドなのだろう。

親が子供に対するもどかしい思いや、子が親に対するうっとおしい思いの原因は、基本その年齢のギャップにあるが、例えばその年齢差がなくなり、お互いの思いを友達としてぶつけ合い、その衝突を通して分かり合えば、それは理想の関係に発展するかもしれない。ネタバレを承知で書くが、そっくりキャラがのび太くんのお父さんであることは、物語の冒頭から明かされているので、種あかしとして気づくその人は、のび太くんなわけだ。いつも一緒にピンチを乗り越え、自分を勇気づけてくれたアイツが、いつも頼りない、あのお父さんだったのか、という事実に気づいたのび太くんの充実した笑顔の描写で、困ったことに僕は泣いてしまった。

親の気持ちの多くは子供に伝わらない。なんとかして、この相手を大切に思う感情を理解させたいのだが、それはなかなか上手くいかないものだ。それをもし、自分が子供と同い年になる境遇に巻き込まれ、親友関係として共感できたら、それは最高の時間だと思う。物語としては苦しい内容だった。しかし、このドラえもん映画の価値はそこにはない。あたり前の日常、自分が子供を連れて映画を観に来たという、その行動がどれだけ幸せなことかアナタわかっていますか、という真っ当な価値観の確認にあるのだろう。物語とは到底関係なさそうなシーンが多々あった。それはのび太くんが生まれた直後、病院に駆けつけるお父さんの慌てぶりだったり、安っぽい中華料理屋で家族でラーメンを食べるシーンだったりする。そういう教科書的幸せを見せつけられると、うんざりする人も多かろう。いかにも非難が集中しそうだ。しかし、のび太くんの笑顔で泣かされた僕に、それを否定する資格はない。

大型TVが普通になり、DVDが普及し気軽に映画が楽しめるようになって、映画館へ行く人は減少傾向にあろう。同じ内容を10倍近いお金を払って観るのはどうかと思うが、確かに10倍くらいの価値はあるのかもしれない。
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お約束

03 19, 2012
立川のシネマシティ/CINEMAへ「映画 プリキュア オールスターズ New Stage みらいのともだち」を娘と観に行った。ここはかなり充実した映画館で、プリキュア以外にも「PINA」とか魅力的な映画は多々公開されているにも関わらず、またもやプリキュアである。しかも公開初日。そのせいか、前回の様子とは異なり、かなり男同士とか若めのカップルがいて、真剣にプリキュアを観るという方々が多いようだった。印象的だったのは、男同士の彼らがファッショナブルで、全くオタク感のない爽やかな少年達だったことだ。幼い頃から仮面ライダーとセットで見ているうちになんとなく、愛情を持ったのだろうか。もちろん親子づれが多数ではあったが。

今回と前回(http://shinichitoda.blog117.fc2.com/blog-entry-274.html)の違いは、登場するプリキュア数の差にある。前回は確か4人だったが、今回は28人。始まってすぐに全員そろって笑顔で集合する絵があるが、なんだか凄いことになっていた。その系統は同じにして、個々の差別化を確立しているデザイン設計は、もしかすると見事かもしれない。たぶん28人それぞれのキャラクターをおろそかにできない大人の事情もあるのだろう。しかし、そのまま個々の見せ場を順番に作るだけでは物語も薄くなる。制作者の手腕が問われるところだ。仮面ライダーやウルトラマン等々、オールスター総出演ものの課題はそこにあるといっていい。
今回は主役をプリキュアではない、普通の女子にすることで、この問題解決を試みていた。「プリキュアって凄いなあ」と感想をもらすその転校したての内気な女子と、プリキュアがどう絡むかのかが見所になっており、前半はそこそこ面白かった。しかしそのツケは後半にまわる。ひとつのピンチで、一気に20人近くのプリキュアを義務的に登場させねばならず、そのため変身シーンの連続になり、いつもの展開になってしまった。でもまあこういう映画なのだ。子供が目を輝かせるのはそういう場面である。絶体絶命の状況で「遅れてゴメン」とか言いながら、頼もしい先輩プリキュア達が唐突に現れるのは、オールスター的お約束として必須なのだ。とても否定できるものではない。映画が終わり「じゃ、反省会するか」と勢いよく席を立つ先ほどの少年達と、娘が床にまき散らしたポップコーンを拾うべく、しゃがみ込む僕とでは、そもそも向き合う姿勢が全然違うのだった。
画像は、2012映画プリキュアオールスターズNS製作委員会より、厳密には28人ではない。
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侍とは

11 24, 2011
僕はある会社に勤めているが、社長と話したことは1回しかない。だからというわけではないが、あの社長に尽くしているという感覚が全くない。どちらかというと天皇ぐらい遠い関係の人だ。では上司に対して尽くしているかとなると、それも危うい。たぶん尽くすという感覚が現代にはそぐわない行為なのだと思う。基本的人権が尊重される今、組織は仕事上あるが、それは入れ替え可能なフォーマットに近い。僕は明らかに自分や家族のために働いているのであって、僕を雇っている人のために動いているわけではない。

「十三人の刺客」三池崇史(2010年日本)
時代劇だ。しつこい程に行動の前には言葉がくる。そして、その台詞の多くが格言のようである。「主君のために尽くすことが武士」vs「天下万民のためになすべき事をなす」がお互いの侍魂を賭けてぶつかる。そんなこと言っている暇があったら、極端な量の爆弾を用意して、さっさと事を完遂すればいいではないかと思うが、それは効率重視のつまらぬ考えだ。個人の意思ではなく、そこを超えたそれぞれが思う大義や正義が重要なのだろう。武士道に詳しくないので不明瞭なのだが、そんなにも主君という存在が尊いものなのか、現代人である僕にはどうにもこうにも理解できなかった。
侍であるということが、人間であるということより優位になるのかが非常に疑問なのだが、市村正親はそれを疑わず侍であることを優先する。映画のキャラとはいえ、無抵抗に泣く幼ない命を気まぐれに奪う稲垣吾郎は、明らかに狂っている。そんな主君を守る価値がどこにあるのか。役所広司が問う「おぬしが一番わかっているのではないのか」対して市村が叫ぶ「それをいうな」と。結局考えたくないだけではないのか、主君に使えるという美辞麗句を勝手に当てはめ、無惨に殺されていく無力な人々を見たくないだけではなかったのか。

困った個人が権力を握る不条理を思う。その家臣達は不遇で、切ない限りだろう。問題の主君、稲垣吾郎が「戦乱の世を復活させよう」と嬉しそうに話した直後に、光石研が松方弘樹に切られ「殿をたのむ」という言葉を残して死ぬのだが、心からそう思うのか、どこかで暴君が殺されることを望んでいたのではないのか、と聞きたくなった。
怖いなあと思ったのは、暗闇に浮き上がる白塗りの吹石一恵ではもちろんないが、エグい惨殺描写でもない、主君を盲目的に守ろうとする家臣達が、それを忠義として自分を美化し思考を停止していることだ。それは現在でも融通が効かない人の端々に感じる同じ臭いで、とても困る。いけないことは、いけないと言った方がいい。上がやれと言ったからではなく、自分の頭で考え判断した方がいい。それがある程度できる時代に生まれて、本当によかったと思う。

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地元意識

11 20, 2011
僕は小学校2年から大学に入るまでの12年間を横須賀で過ごした。ここが地元ということになるのだろうけれど、自分の街という感覚がない。そこは個性に欠ける場所でもなく、それなりに面白い地域だったのかもしれないが、帰郷心理も特にはない、もちろん自分がその土地に縛り付けられている感覚もない。

「ザ・タウン」ベン・アフレック(2010年アメリカ)
なんとかこの街を抜け出し、新しい生活を始めたいと願う若者の話。ただ彼は、地元密着タイプの仲間と銀行強盗を生業としている。別にそういう仕事でも出て行く分には可能なのではと思うが、そうもいかないようだ。恩がある仲間や、ネタを提供する黒幕がそれを許さない。お前は父親の代から生粋の銀行強盗なのだから、ということらしい。確かに伝統芸能のように仕込まれた、その強奪テクニックは見事極まりなく、そうやるとFBIは混乱するのかという必要ない知識を頂けて、正直感心してしまった。
どういう技を父から受け継いだのかという描写はないが、親からの教えというものは、子にとっては善悪の何かではなく、無条件に聞き入れる特別なもので、その後の生き様を左右する要素だろう。主人公は頭もキレるし酒をやめるといった自制心もあり、親と環境が違えば、もう少しマトモな人生を歩めたかもしれない。ただ、人間はそれぞれその場所で力を出して生きねばならない。主人公が黒幕との最終対決で見せる行為は、やはりその筋の思考を象徴しているように思えた。

環境がどれだけ人を縛るものなのか分からないが、仲間がどういう人なのかは重要だろう。クリスチャン・ボルタンスキーが、「どうすればあなたのようなアーティストになれるのか?」という質問に、「どういう作品を作るか以前に、どういう友達がいるのかが重要だ」と応えていたのを思い出す。どこで生きるにしろ、大切にしたい関係を作り続ける努力が必要なのだろう。別に出身地が地元ということにしなくてもいのだ。

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父の記憶

11 15, 2011
個人的な話で恐縮だが、僕の父はある事故で意識不明になり、結局そのまま回復することなく亡くなった。ただ、ひと月ほど植物状態で生きていた。時間が経つ程、その衰弱ぶりから死が予想され、その時への覚悟を強いられた。

「ヒア アフター」クリント・イーストウッド(2010年アメリカ)
死者と会話できる能力を持ったマット・デイモンが、それゆえに苦しむ話。彼としては、その力を封印し普通に生活したいのだが、その能力が本物であるゆえ、周囲がほっておかない。そんなに死者と会話したい人がいるのか、という疑問はあるが、事故死などで大切な人を一瞬で失った方々、つまりは「さようなら」の準備ができていない人にとって、その突然の別れは、まず受け止められないものだろう。故人から自分へのメッセージが何かないのか、と思う気持ちもわかる。映画では、マット・デイモンが伝える故人の言葉に、残された人達は涙し、おさまりよく話は終わるが、もちろん死んだ人は還ってこない。

冒頭にもの凄い津波のシーンがあり、いやおうなく3.11を思い出す。あの震災で亡くなった人は尋常な数ではない。事情は様々だろうが、亡くなった方々それぞれが最後に伝えたかった無念のメッセージが、言葉にされないまま漂っていることを思う。
無意識のまま呼吸している父の横に座りながら考えていたのは、そんな一瞬の出来事で父の記憶が全て消えてしまうものなのか、ということだった。思い出も何もかも無かったことにされてしまうのが非常に悔しく、しかし僕に出来ることは何もなく、手術の傷跡が痛々しい頭を見ながら、ただ横に座って話しかけつつ、手を握るしかないのだった。

死を前にして、父の意思ある言葉が一切聞けなかった身内としては、父に日記の類いがないことが残念だった。映画のような直接的なメッセージでなくても、大切に思う人が何を考えていたのか、残された側は知りたいものだ。いまさら理解したところで遅いのだが、それでもその人を偲ぶにあたり、言葉が持つ意味は大きいと思う。

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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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