好奇心丸出しで凝視

05 05, 2014
娘と「ネイチャー」を見に行った。厳しい弱肉強食の世界は小学校2年生には恐怖そのものだったらしく、目を覆って怯えていたが、大人達はみんな好奇心丸出しで凝視していた。自分が生活している時に、同時に世界ではこういう事が起きているのだと思うと、当たり前だが地球は大きい。そういう動物達の貴重な映像が満載であったが、僕はそれ以上に、水のシーンに釘付けだった。2トン以上の5Kカメラ&3D機材を駆使して撮影された様々な水のシーンは、既視感があるものの、鮮明で高細密でため息の連続だった。星の光の反射で、劇的な輝きを放つツララの生成過程は実に見事で、雪の結晶が出来上がっていくシーンを見た時は、ものすごく幸せな気分になった。様々な時間軸でミクロ視点とマクロ視点とを織り交ぜ、撮影された水の動きを見ていると、人間が通常生活している時間の感覚が、こういう事実を見逃す原因なわけで、とても残念な気分になる。もちろん物事を劇的に見るだけが大切なわけではないが、こうやって実際に見せられると、頭で描いていた印象と事実とのギャップはあまりに大きい。「見ているようで、何も見ていなかった」そんな思いでいっぱいになった。
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ずっと雨が降っている

08 09, 2013
珍しくはないが、対象の好きなところだけに焦点をあてて、見たくないものはぼかしてしまうという撮影技術がある。被写界深度を浅くするわけだが、そうして出来る写真は私達の普段の視点とは異なり、明らかに雰囲気が助長され抽象的なイメージが付加される。その手法をアニメーションに生かすと、こういう見え方になるのかと思った。

「言の葉の庭」監督 新海誠(2013年日本)
全編ため息がでるくらい綺麗な絵の連続である。自然描写はもちろんのこと、それは満員電車の中でも、散らかった部屋の中でも同じように美しい。だからか見ているうちに、世界はそんなに美しくないんじゃないか、という気分になる。しかし、それは僕の眼が汚れているからであって、こんな風に世の中が見える人もいるのだ、とか考えていたら、被写界深度を浅くする視点が多用されていることに気づいた。少しの工夫で、随分と新鮮な画面になるものだと感心した。

「鳴る神の 少し響(とよ)みてさし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
(雷がかすかに響いて、曇って雨も降ってこないかしら、そうすれば、あなたの帰りを引き留めましょうに)
「鳴る神の 少し響みて降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」
(雷がかすかに響いて、雨が降らなくても、私は留まりますよ、あなたが引き留めるならば)

という万葉集の歌が使われているが、確かにこういう歌に合わせることを考えると、余計な情報はぼかした絵の方が似合うのかもしれない。焦点を絞り込むことで、逆に広がる世界もあるということか。

雨が重要な物語要素なので、ほとんどのシーンで雨が降っている。そして、その雨の表情が実に丁寧だった。「線で色を描き、面で環境光を入れる」のだそうだ、正直ストーリーはどうでもよい感じだったが、その絵の綺麗さからは、学ぶべき要素が相当あると思われた。
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画像:http://i.gzn.jp/img/2013/02/21/kotonohanoniwa-trailer/kotonoha-18.png
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画像:http://i.gzn.jp/img/2013/02/21/kotonohanoniwa-trailer/kotonoha-26.png
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死者との継続時間

11 13, 2012
亡くなった人との関係をいつまでも大切にしたいという思いは、得てして現実離れする行動に繋がる。これは、父親の持ち物から偶然鍵を見つけた少年が、その鍵を差し込むべく存在するであろう穴を探し求める話。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」監督 S・ダルドリー(2011年アメリカ)
唐突に肉親を失う衝撃は、味わった者にしかわからないだろう。もう父はいない、という事実はそうそう受け入れられるものではない。特に本作のように、父親との交流が最も楽しい時間として機能している少年にとって、その現実は残酷以外の何ものでもない。少年は亡き父との時間を継続すべく、遺品から見つけた鍵を自分へのメッセージと受け止め、生前何度もやった謎解きゲームのごとく「鍵穴」を探し続ける。

以前、余命4ヶ月と宣告された6歳の少女が、両親への愛を死後も伝えようと、家中に何百通も絵手紙を隠していた、という実話があった。悲劇のどん底であろう両親が、亡き娘からのラブレターを日常生活の中で、偶然見つけるシーンを思うと、とても言葉にできるものではないが、その手紙を見つけるたびに親は、娘との時間の継続を意識するだろう。しかし、厳しいとは思うけれど、そういう時間はいつか途切れる。死者との関わりを、いつまでも続けているわけにはいかない。生きている者は、生きた現実に向き合わねばならない。

この映画では、少年の鍵がどこにはまるのかが解かれた時、死者との継続時間も終わり、そこには酷な結果が待っている。しかしこの経験を経て、再び少年が現実に向き合うその時、ある救いは訪れる。終盤に、この少年の母親も、実は鍵穴探しをする息子の行動を必死に予想し、先回りしていた事実が明かされる。それはとても感動的なのだが、夫を失った妻も息子を通して、死者との継続時間をそこで過ごしていたのだろう。大切な家族を失いつつも、これからも生活を続ける糧として、この鍵をめぐる亡き父親との交流が、2人の中ではどうしても必要だったということか。
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http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19777/gallery/p004.html
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こってり

10 23, 2012
たとえ面白くても、それをやり過ぎるとしつこくなり消化不良を起こす。このシーンは凄いと思わせるものでも、それがこれでもかと延々続いてしまうと、もうわかったから終わりにして欲しいと思う。事実、映画が終わった時、僕はほっとした。

「ロボット」監督シャンカールアニマトトロニクス 主演ラジンニカーント(2010年インド)
度肝を抜くシーンがあると聞いて、実に楽しみにしていたのだが、結局最後までそのインド映画独特のこってりした感じに馴染めなかった。確かに、要所要所にショッキングな場面も加えられ、度肝を抜かれるシーンもあったし、5歳児も眠らないまま見続けられる面白さはあるのだが、どうも全てがしつこく出来ているので、くどいという印象が抜けないのだった。
たぶん終わり間際の出来事は、涙で満たされることが意図されているのだろうけれど、僕はようやく終わるという安心感に満たされていた。途中でミュージカル的に挟まれる、唐突なダンスシーンも別にあっていいのだが、どうも長い。次々に衣装が変わり場面が変わり、その喜びが表現されているのだが、もうそのへんでいいのでは、と毎回思わせる感じで、途中からその歓喜に対して共感できなくなっていた。

内容としては、ロボットが感情を持つことによって起こるトラブルと、その能力を悪用されてしまうことでの惨劇が描かれる。こう書いてしまうと随分あっさりしているが、あっさりしている部分は微塵もなく、登場人物の顔ももちろん濃い。
本作は、監督が劇中の新型ロボット同様に10年の構想で作り上げ、インド映画史上最大の予算をつぎ込んだ超大作で、同国での映画としては史上最高の興行収入を記録したらしい。たぶんインド人にとっては最高のエンターテイメントが、カレーのごとく様々に味わえ、絶妙な混ざり具合でまとまった作品なのだろう。勝手なイメージになってしまうが、僕の中では、インドとはもっとゆっくり生きている方々が多い印象だったが、そうでもないのだろうか。

たぶんハリウッド映画ばかり見ていたからなのだろう。映画のリズム感みたいなものが、固定化されてしまい、柔軟に対応できなくなっていると思われる。あの絡み付くようなヒンディー語もこってりした印象に拍車をかけていた。しかし、それはそれを母国語としている人にとっては普通の言葉なのだ。そこで目を閉じてしまうと何も見えない。慣れた世界は馴染みやすいが進歩もない。幅を広げる必要性を感じたものの、では主演のラジンニカーントの出世作「ムトゥ踊るマハラジャ」(1995年)を見る勇気は今のところない。
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(C)2010 SUN PICTURES, ALL RIGHTS RESERVED.
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娘が大切か、地球の未来が大切か

04 24, 2012
ある日、プリンのことで喧嘩したしんのすけとひまわり。そこに「ひまわり姫をお預かりします」と謎の男達が現れた。ラッキーとばかりに渡された紙にサインするしんのすけ。次の瞬間上空に現れたUFOに野原一家は吸い込まれてしまう。
到着したのは「ヒマワリ星」という見知らぬ星であった。星の王ゴロネスキーが叫ぶ「ひまわり様がいなければ、地球もヒマワリ星も消滅してしまうのだ」と。
急激な展開に呆然とするひろしとみさえだが、しんのすけがサインしたのは、全てを了解するという「宇宙契約書」だった ― 。

以前、子供に見せたくないアニメの代名詞だったクレヨンしんちゃんは、今や大人が感動できる定番ファミリー映画にまで登りつめてしまった。しんのすけのしゃべり方が苛立たしいと感じていた人も、正直慣れてしまったのではなかろうか。もう真似をする子供も少なそうだ。

「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス」を、しんのすけと同い年である娘と観た。家族みんなでひまわりちゃんを取り戻すべく頑張るという話であった。よく、クレヨンしんちゃんの映画は号泣必死と聞いていたので、僕もそうなるのかと構えていたが、そうでもなかった。逆に、劇中で交わされる会話の哲学性に引きつけられた。
「娘が大切か、地球の未来が大切か」と、しんのすけの両親は問われる。両親は答える。「1年先もよくわからないのに、地球の未来なんて私達に分かるわけがない」「ひまわりは私達と一緒でなければならない」等々である。色々と置き換えが可能な問答だし、同じ状況に置かれれば、同意見が多そうだ。誰だって、みんなの将来は大切だが、我が子を犠牲にすることは避けたいはずだ。そこに綺麗ごとは必要ない。

クレヨンしんちゃんをよく知っているわけではないが、あの面白さというのは子供の小生意気な部分やブラックな感覚を面白がるのかと思っていたが、そういう毒的要素はほとんどなく、しかも悪人が出てこない話だった。皆それぞれの役目を遂行すべく行動する、真面目な人ばかりであった。ふざけているのはしんのすけぐらいで、とはいえ彼も妹を取り戻すべく必死ではあった。と考えると、過剰なアレンジ描写で笑ってしまう場面が多かったが、基本的には非常に真っ当な話であった。
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画像:http://shinchan-movie.com/
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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