完全な複製物ではなく、少しだけ何かが変わった複製物

02 24, 2019
ソフィ・カルの「限局性激痛」を観た。このタイトルはいつも忘れてしまうが、縫い込まれた文字の色が支持体の布に溶け込んでいく様相は忘れたことがなかった。「時のかたち」の著者ジョージ・クブラーが「模倣の過程には対照的なふたつの動きがある。それらは、質のよさへ向かう動きと質のよさから遠ざかる動きとして説明できる」と書いている。時の経過によって何かが変化するシーンをテーマにした作品は多々あるが、この「限局性激痛」の場合は、そのどちらでもなく「傷が癒えていく動き」になるのだろう。しかし、観ている間何度もこの言葉が脳裏をよぎった。「それぞれの瞬間はその直後に起こった瞬間のほぼ正確な複製物である」これもジョージ・クブラーの言葉だが、この「ほぼ」が重要で、言いかえればそれぞれの瞬間は「完全な複製物ではなく、少しだけ何かが変わった複製物」なのだ。変化がどこに向かうのか、その微妙な差異を見極めないと痛い目にあうのだろう。質の向上なのか劣化なのか、傷が癒えているのか悪化しているのか。気づいたら遅かったとはなりたくないものだ。
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「ただの倉庫」ではなかった

03 23, 2018
ひたすら人が語る話を聴く時間だった。場所はイベント会場と形容するには戸惑う程の「ただの倉庫」で、壊れたラジカセといった過去の遺物が周囲に積み上げられ、その全てに見事に埃が被っていた。その日は3月後半というのに雪が降り、小さなストーブしかない会場の寒さは屋外と差がない。主催者は使い捨てカイロを配っていたが効果は微妙で、どちらかといえば、その心遣いの方が暖かかった。椅子も祖末で統一感はなく、とりあえず集めたであろう代物で、正直、予想していた空間とかけ離れており、全くもって愕然とするしかなかった。
しかし、このイベントに僕を誘ってくれたTさん本人が登場し、沈黙したまま会場の中心に垂れ下がった電球を変えて、光の演出を加えると、その空間は見事に「倉庫」から「Tさんのイベント会場」に変貌し始めた。珍しいヴェルモットの瓶とボンベイ・サファイアがテーブルに置かれ、グラスと氷の音を絡めた演出に合わせて、カクテルに関する朗読が始まると、そこは「舞台」になった。氷や水で割らない強い酒が少量ふるまわれ、それを皆で飲みながらトークが始まり、美術を中心に藝術というジャンルを様々に跨いだ話を黙って聴いていると、空間は更に変貌し、隠れ家に集まる仲間と一緒にいる気分になり、更に酔いも手伝い、こういう時間を久しく味わっていなかった自分に気づいた。
どうしても会社で交わされる言葉というのは、当たり前だが「際限のない利益追求」が絡むため、思考純度が極度に下がり、どうでもいい内容が大仰に語られ、つまりは考えるべき問題が選別される。もちろんそれはどうにもならない周知の事実で、今更誰も踏み込まない。言ってしまえば、もう終わったことだ。しかし、僕自身はそこで何十年という多大な時間を過ごしているわけで、とうに慣れたつもりでいたが、意外と荒み切っていたらしい。Tさんが会場の方々と交わしている言葉を聴きながら、己の荒み度合いを実感していた。こういう純度が極端に高い会話を聴いていると、まだこの世界はあったんだ、という安堵に浸る感じで、なんとも幸福なのだった。止むに止まれぬまま藝術と絡んできたであろう方々の纏う空気が、自分に浸透してくる感覚が嬉しかった。「ただの倉庫」ではなかった。今後の可能性を孕む「純度が極めて高い空間」だった。主催者とTさんは、実に素晴らしいのだった。本当に良い時間を過ごせた。
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徹底的な無常観

09 19, 2016
作品に言葉が被さっている。展示物だけではもの足りないのだろう。「もっと言いたいことがあるが、これで我慢する」という箍が外れて「もっと壊したい」という明確な意志が空間に充満していた。今までの精錬とした隙のない構成は消え去った。混沌しかない空間は全てがフリーハンドで、これまで封印されてきた感情がだだ漏れ状態になっていた。完成度を極限まで追求する姿勢が反転し、どこまで破壊できるかを欲望のまま露にした結果「こうなりました」という展示だった。

「ロスト・ヒューマン」杉本博司(東京都写真美術館)
僕は物を収集したことがないので、そこに展示されている様々な過去の遺物がどれほどの価値を持つのか知らないのだけれど、きっとどれも高価なのだろう。それらを利用した、人類滅亡後の世界を観て回る構成は、人がたくさんうろついているにも関わらず、なんだか盛り上がっていない。唯一の救いは、著名人に代筆させた様々な手書きのメッセージなのだが、それも「へえ。あの人はこういう筆跡だったんだ(平野啓一郎の達筆さと原研哉のかわいい文字が、僕にとってはツボだった)」という好奇心が刺激される程度だ。しかもそれはカタログには記載されていない。結局、杉本博司コレクションが、設定を変えて展示されているということか。
フロアが変わると、次の空間になる。そこには劇場シリーズの退廃バージョンが並ぶ、いつもの緊張感ある展示光景だ。しかし、そこにも言葉が被さり徹底的な無常観が主張される。滅亡への憧れに杉本博司が染まっているのかもしれない。その裏側の空間に、三十三間堂の仏達が静かに並んでいる。これを初めて見たのは、もう何年前だろうか。そして、ここまできて観者はようやく言葉から解放される。

言葉は思わず読んでしまうし意外に頭に残る、かなりうるさい存在だということを、今回意識できた。無言の仏達を見ていると、確かに人間は何をしているのだろうと思うしかない。ほぼ毎日どこかでテロが起きている。死んではいけない人が次々に亡くなっている。つい最近は、北朝鮮が核実験を行なった。本当に人類は滅亡してしまうかもしれない。
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画像:http://www.fashion-headline.com/article/img/2016/06/29/14858/173615.html
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現実性が薄い一瞬のユートピア

06 07, 2016
裸になるのは普通かなりの勇気が必要だ。それが人前であれば尚更だし、ましてや自身のヌード写真が作品として世の中に出回るとしたら、モデルとなる人は相当オープンな思考の持ち主と言えるだろう。しかし、そういう人が世界には大勢いるようだ。ライアン・マッギンレーの作品を見てそう思わずにはいられなかった。
ライアン・マッギンレー「BODY LOUD !」東京オペラシティ アートギャラリー
男女関係なく若者が脱ぎに脱ぎまくっているが、そこには全くエロスがない。とても健康的な空気が漂う底抜けに明るそうな写真が並ぶ。若くして大成功した作者の才能は、つまり同世代の人間に対する服を脱がす技なのではないかと思ってしまう。それとも若者は今、裸になりたがっているのだろうか。その作品群を見ると、みんな実に喜んでいる。裸であることの恥じらいや戸惑いが一切感じられない。一体どんな現場なのだろう、全員裸だったりするのだろうか。それとも裸になるという行為は、本来喜びを伴うものなのか。それを意識するのをこちら側が忘れてしまったのかもしれない。
ロードムービーのように車で移動しながら場所を探し、撮影しながら仲間同士テンションを上げていくのだろう。その半端ない開放感は若さの快感に貫かれ、ある意味エクスタシーに満ちている。一方世の中は暗いニュースで満ちている、そうでなくとも生きることはそれだけで、ある程度の辛さを伴うのに、写真の中の彼らを見ていると、そういう重さからは完全に解き放たれているように見える。
たぶん、それは写真だから可能なのだろう。その一瞬の自由を閉じ込めるには写真にするしかなかったのではないか。映像ではその前後がリアルに記録されてしまう。この写真の世界はそういう現実性が薄い一瞬のユートピアだからこそ、価値があるように思えた。現実は重く暗いからこそ、ライアン・マッギンレーが受けるのだろう。ただ意外に現場は、リアルな世界であるゆえ、どろどろしているかもしれない。
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※会場は撮影が可能
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無意識に全てのものが纏う気配

03 02, 2016
何かのデザインワークをしていて、その完成が近づいてくると作業が細かくなる。タイトルを0.1mm移動とか98%縮小とか、人間の目では一見わからない調整をする。見えないのならその作業は無駄かもしれないが、ここを疎かにすると完成度に格段の差が生じる。その少しの差が大きいのだ。ただ完成させるという意志がないと、その調整には終わりがないので延々とバリエーションが生まれるだけの迷い道に入ってしまう

「ジュルジョ・モランディ 終わりなき変奏」(東京ステーションギャラリー)
ある視点から見ると、その行為は同じ事の繰り返しかもしれないが、別の視点から見ると、それは異なる試みの連続であったりする。もしその行為が後者であれば、同じ様な見た目の中に、うかがい知れない作者の刺激や興奮が必ず存在している。
僕がモランディの作品を初めて見たのは高校の美術室だった。なんて退屈な絵が世の中にはあるのかと思った。その眠い色彩、ぼんやりした輪郭で構成された画面。当時はその凄さが全く理解できなかったが、今ならその要素全てに意味があったことがわかる。眠い色彩やぼけた輪郭に絵の秘密があった。同じように見えることが重要だった。
すでに写実的に描くこと以上に、どのように描くのかという問題が絵画の共通認識だったことに対し、モランディはその焦点を狭めることで、描く対象を突き詰めようとしたのだろう。様々な物を描くのではなく、限定された物を描くことで抽出できる要素があること、同じ様な反復を繰り返すことで新たな試みが生まれること。それらを通して、彼が描き出したものは一体何だったのか。

話を飛ばすと日本には似た様な文化が根付いている。ワンパターンの肯定だ。そこには同じような話の繰り返しだからこそ滲み出る面白さがある。各種の時代劇から寅さんシリーズ、子供の仮面ライダーやプリキュアまでそれは様々だが、貫通している思いは、安心できるストーリー上にある変化の差異を楽しむことだ。やっていることが全部同じであるがゆえに見える差異、もしくは自分の予想との細かなギャップが、見る側視点のたまらない喜びに繋がる。そして前作があるからこそ次回作の完成度が上がったり(もちろん下がる場合もあるが)工夫の余地が生まれる。洗練というのは、その経験を繰り返すことで所作や外観がランクアップすることのひとつだが、良いワンパターンシリーズにも通底する概念ではなかろうか。

話を戻す。モランディはモチーフを限定し、描き方や色彩の差異を極限までなくしていくことによって、初めて生じる変化に注目した。会場にある同じ様な静物画を連続して観ていると、今観たものがさっき観たものにも思えてきて、間違い探し的な感覚に捕われる。一見しただけではその差が分からなくなる。眠い色彩とぼやけた輪郭でその曖昧さがさらに強調される。そしてそこから存在そのものが持つ「あわい」のようなものが立ち上がる。本来個性や特徴といったものは判別しやすいものだ。しかし、そういうわかりやすい強度ある存在感ではなく、無意識に全てのものが纏う気配のような存在感を、モランディは描き出したかったのではないか。同じ様なものでも決して同じでない事、視点を惑わすような差異の連続を体験していると、その小さな画面の中から作者の興奮が見えてくるような気がした。
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画像:http://www.eventscramble.jp/e/morandi/
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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