無意識に全てのものが纏う気配

03 02, 2016
何かのデザインワークをしていて、その完成が近づいてくると作業が細かくなる。タイトルを0.1mm移動とか98%縮小とか、人間の目では一見わからない調整をする。見えないのならその作業は無駄かもしれないが、ここを疎かにすると完成度に格段の差が生じる。その少しの差が大きいのだ。ただ完成させるという意志がないと、その調整には終わりがないので延々とバリエーションが生まれるだけの迷い道に入ってしまう

「ジュルジョ・モランディ 終わりなき変奏」(東京ステーションギャラリー)
ある視点から見ると、その行為は同じ事の繰り返しかもしれないが、別の視点から見ると、それは異なる試みの連続であったりする。もしその行為が後者であれば、同じ様な見た目の中に、うかがい知れない作者の刺激や興奮が必ず存在している。
僕がモランディの作品を初めて見たのは高校の美術室だった。なんて退屈な絵が世の中にはあるのかと思った。その眠い色彩、ぼんやりした輪郭で構成された画面。当時はその凄さが全く理解できなかったが、今ならその要素全てに意味があったことがわかる。眠い色彩やぼけた輪郭に絵の秘密があった。同じように見えることが重要だった。
すでに写実的に描くこと以上に、どのように描くのかという問題が絵画の共通認識だったことに対し、モランディはその焦点を狭めることで、描く対象を突き詰めようとしたのだろう。様々な物を描くのではなく、限定された物を描くことで抽出できる要素があること、同じ様な反復を繰り返すことで新たな試みが生まれること。それらを通して、彼が描き出したものは一体何だったのか。

話を飛ばすと日本には似た様な文化が根付いている。ワンパターンの肯定だ。そこには同じような話の繰り返しだからこそ滲み出る面白さがある。各種の時代劇から寅さんシリーズ、子供の仮面ライダーやプリキュアまでそれは様々だが、貫通している思いは、安心できるストーリー上にある変化の差異を楽しむことだ。やっていることが全部同じであるがゆえに見える差異、もしくは自分の予想との細かなギャップが、見る側視点のたまらない喜びに繋がる。そして前作があるからこそ次回作の完成度が上がったり(もちろん下がる場合もあるが)工夫の余地が生まれる。洗練というのは、その経験を繰り返すことで所作や外観がランクアップすることのひとつだが、良いワンパターンシリーズにも通底する概念ではなかろうか。

話を戻す。モランディはモチーフを限定し、描き方や色彩の差異を極限までなくしていくことによって、初めて生じる変化に注目した。会場にある同じ様な静物画を連続して観ていると、今観たものがさっき観たものにも思えてきて、間違い探し的な感覚に捕われる。一見しただけではその差が分からなくなる。眠い色彩とぼやけた輪郭でその曖昧さがさらに強調される。そしてそこから存在そのものが持つ「あわい」のようなものが立ち上がる。本来個性や特徴といったものは判別しやすいものだ。しかし、そういうわかりやすい強度ある存在感ではなく、無意識に全てのものが纏う気配のような存在感を、モランディは描き出したかったのではないか。同じ様なものでも決して同じでない事、視点を惑わすような差異の連続を体験していると、その小さな画面の中から作者の興奮が見えてくるような気がした。
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画像:http://www.eventscramble.jp/e/morandi/
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現代美術のルールをプログラミングされた人工知能

01 12, 2016
村上隆の展示を観た。作品が商品のようであった。もちろん作品は商品として売買の対象にならねば存在価値がない、と考える方々にとってはなんの問題もなかろう。何故ゆえそのように見えてしまうのだろうか。そのあまりに迷いのない、古典を元ネタにしたテーマ設定や徹底的な手数と高度な完成度が、温かさのような人間味を消すのだろうか。正直、現代美術のルールをプログラミングされた人工知能が、手数勝負の潮流を踏まえて制作したサンプルを見ている感じだった。作品のテンションがどれも同じなのだ。完璧に管理された制作行程を経て完成に至る工業製品、という見え方を村上隆は求めているのだろうか。そういえばオタクは生身の人間関係を拒み、イメージ世界との戯れを選んだ方々だ。それをどうこう言うつもりはないが、彼らは人間的な生々しさを嫌悪し、プラスチックもしくは金属メッキのようなドライな表情を好むのかもしれない。(スーパーフラットとはそういうことだったか?)細部の細部にまで行き届いた配慮と大胆な動きが混在する画面には、暑苦しい程の原色が目眩を起こすほど飛び交っているのに、その空気はどこまでも冷たいのだった。相当な自己主張と同時に「俺に触るな」という拒絶も感じた。ただ、展示の最後にあった年表の執拗な記述には温度があった。こうしてこうやって頑張って「俺はここまで来たんだ」という人間の切実さがそこにはあった。僕が一番長い時間見ていたのは、その年表だったかもしれない。
「村上隆の五百羅漢図展」森美術館、3月6日まで。
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作品を取り巻く空間の進化

11 24, 2015
僕はラフな展示よりも、作り込まれた展示の方が好きである。例えば壁に作品とは関係ない穴があったりとか、コンセプトや作品と関係ないノイズが多大に含まれる空間がどうにも受け入れがたい。そういうノイズを上手く取り込んで、作品と呼応させるような工夫があれば問題ないのだが、そうでないと意識が集中できず、観るべきものではない何かばかりが目に入ってしまい、観るという意識がずいぶん落ちてしまう。映画館で横にやたらノイズを発生させる人がいたら映画に集中できないのと同じだ。

「杉本博司 趣味と芸術-味占郷/今昔三部作」千葉市美術館
間違いなく展示空間の作り込みでは世界トップレベルの人だと思う。作品の魅力を最大限引き出すにはどうしたらいいのかを知り尽くしている。今回は開館20周年記念も兼ねた千葉市美術館で「海景」「劇場」「ジオラマ」それぞれの初期作品と最新作が並ぶ構成になっていた。入ってすぐに緩い曲面状の壁に「海景」が並んでいた。フレームは鉛で統一されており、抑えめの照明の中鈍く光っている。写真の展示でこれ以上に空間を作り込み、神経を尖らせるのは困難だろうと思わせる完成度で、これ以上何を凝ることができるのか、もう僕にはわからなかった。そういう意味では完璧というより、この空間ではここまでが限度なのだろう。
作品自体に関しては、もう何度観たのか忘れた程の「3部作」なので(最新作の「劇場」は縦位置というのがウリらしいが、やっていることは同じ)なんというかスタローンのロッキー、シュワルツェネッガーのターミネーター、ブルースのダイハードみたいな感じで、何もかもが一流でコストも莫大なのだがお約束の流れの範疇なので、僕の関心は言わば、その周りの空間構成やプレゼンテーション形式にあった。
そういう客層のためなのか、同じ企画のもうひとつ「趣味と芸術-味占郷」は全く趣向が異なる展示だった。各界の著名人をもてなす際にしつらえた掛け軸と置物で構成した床飾りの再現が27セット並んでいる。本人としては明らかにこちらがメインなのかもしれない。しかしそれは一般人からすると、いくら婦人画報の企画とはいえ、有名人との華々しい交流と神々しいコレクションの披露欲求を合わせただけに思えた。器を映えさせるために、須田悦弘の作品が使われているのだが、これも観ていて苦い気分が消えない。もちろんこちらの展示空間も贅沢でそれぞれの骨董品がほのかなスポットに照らされ、その価値を助長しており見入ってしまう。そうと知らされていなかったら、こんなにしげしげとは観ない。しかし、こちらも今ひとつ盛り上がらない。

記憶が曖昧だが、初めて杉本の「海景」を観たのは1991年頃の横浜SOGOでの「現代美術の神話」展だった。イリアナ・ソナベンドのコレクションで構成されたその展覧会は、彼女のギャラリーに所属したアーティストの作品で構成されており、正直その中での「海景」はあまりに地味で、展示も2〜3点壁に設置されたそっけないもので、ほとんど記憶に残らなかった。しかしその後の1995年、東京都現代美術館での「日本の現代美術 1985-1995」展は違った。今の様な巨大プリント+大層な額装ではなく、全紙サイズで普通の黒いフレームにマウントされたものだったが、それが天井までグレーに染まった壁にずらりと並ぶシーンは壮観であった。写真の中の白と黒で作られた水平線のラインの連結が劇的に眩しくて、いたく動揺した。こんな展示があるのかと思い知った。作品とそれを取り巻く空間がいかに重要かということを、たぶん僕はこれで学んだ。

展示空間というのは限界がある。今回の千葉市美術館でもそれは同じだ。ブレゲンツ美術館がどこにでもあるわけではない。世界中の美術館で展示をしたからこそ、杉本博司は建築に手を出し、建物から作るようになったのだ。そして更なる作品を取り巻く空間の進化を目指しているのだろう。2016年には渾身の力作が小田原に完成するらしい。そのイメージ画像を見ただけで、彼の美意識の炸裂が見て取れる。行ってみたい。
http://www.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303448204579336213293444896
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画像:同サイトのスクリーンショット
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作品を掛けるだけで、完璧に仕上がったという空間(ブレゲンツ美術館)
画像:http://blogs.wsj.com/scene/2014/01/23/hiroshi-sugimoto-designs-his-own-museum-in-japan/
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ガラスの壁

09 07, 2015
去年定年退職されたガラス作家で元上司の作品を、代官山のヒルサイドフォーラムまで観に行った。「GATE」と題されたその作品は、透明ではなくフロスト加工が施され、向こう側が見えない状態だが、その中心付近に長方形の穴が斜めに開いており、その穴から少しだけあちら側が見える。穴が斜めになっていることで、出口に行けば行くほど透明度が増していく。穴の内側はかなり研磨されており、ダークグレーから透明へのグラデーションが鮮やかに流れていた。
その元上司は、自由な会社員として有名だったが、その定年ゲートを抜けた分、さらなる自由を謳歌されているに違いない、なんとも想像がしやすい。その作品「GATE」の反対側からあの笑い声が聞こえるようだった。

せっかくなので少し足を伸ばし、同じガラスの壁に狼が激突している、蔡國強の「壁撞き」を観に行った。写真で何度か見ていたが、実物を目の当たりにするのは初めてだった。ベルリンの壁と同じ高さのガラスに、99匹の狼が空を駆け抜け、ぶち合たり落下している。99という数字は、中国の道教で「永遠の循環」を象徴するらしく、展示されている狼も円環状に配されており、その壁を越えようとする懸命な姿勢がよく伝わってくる。とはいえ、壁を越えた狼は今のところ1匹もいない。この作品は「東西ドイツがベルリンの壁崩壊後も意思統一出来なかったこと」を表現しているらしく、所蔵先もドイツ銀行であった。なんともわかりやすい。
挑戦を繰り返す狼達の反対側には、小屋の中で花火が爆発する映像が流れていた。内に秘めた思いに小屋は耐えきれず、最後は燃え上がっていた。炸裂する蔡國強のインパクトは確かなもので、娘(8)は予想外の作品群に目を輝かせていた。さすが蔡國強という他ない。

蔡國強のガラス壁は透明なので、衝突の衝撃で顔が歪む狼の表情がよく見えた。しかし狼達にとって、その向こう側は見えるだけで今のところ越えられない。一方、元上司のガラス壁は半透明で何も見えない。しかしそこには小さな出入り口があり、向こう側に続く何かが開かれていた。しかしその空間はあまりに小さく、人は通り抜けることが出来ない。ガラスの壁には、どこかそういう届きそうで届かない閉鎖性が孕むように思えて仕方ない。

「2015日本のガラス展」東京展は終了。9月12日から10月18日まで酒田市美術館で開催
「蔡國強展 帰去来」(横浜美術館)10月18日(日)まで
タイトルの「帰去来(ききょらい)」は、中国の詩人、陶淵明(とうえんめい)の代表作「帰去来辞」から引用しています。官職を辞して、故郷に帰り田園に生きる決意を表したこの詩は、現実を見つめ、己の正しい道に戻り、自然に身をゆだねる自由な精神を謳っています。(美術館HPより)
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画像:http://yokohama-sozokaiwai.jp/person/11242.html
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ひとつのこと

08 20, 2015
舟越保武は作品を制作するにあたり「前作よりも今回はより良くなっているか」というある種の職人的判断を重視したらしく、自分のことを「私は芸術家でなくてよかった」という言葉で表している。舟越保武を知らずに「芸術家」を名乗っている人は極端に少ないと思うので、この「私は芸術家より職人」という思いには恐れ入るが、確かにその生涯に残した作品群は、あまりに一本道ではある。つまり、今の芸術家は他方向にその能力を発揮せねばなず、著名なアーティストを含めその多くは、アウトプットを限定しない姿勢を通して、自身の鮮度やマルチな才能をアピールする。その辺りを、第一人者でもあった舟越が気にしていたとは到底思えないが、一筋に人物を作り続けてきたその思いは、確かに芸術家的というより職人的だったのかもしれない。もちろん、どちらがどうという優劣はつけられないが、ひとつのことを徹底的に極めるという姿勢はかなり共感できる。続ければ続ける程にその深淵に入り込む感覚は、作り手だけが味わえる尊い世界で、それは見るだけの者には絶対に知り得ない。その制作過程上で生じる自分の手の動きの進化とか、見方の変化の機微といった、作り手がわざわざ言語化しない制作行為の変化は、ひとつのことを継続し続けることでしか実感できないように思える。そして、その「ひとつのこと」を執拗に繰り返し、技術その他の感覚を進化させていく人が「職人」だったりするのだろう。名作「聖セシリア」を見ると、その気品にしびれるばかりだが、脳梗塞後の左手だけで制作された「ゴルゴダ」になると、今まで作られてきた端正な顔立ちに秘められた、その内側を垣間見るようで、そこには最近取り沙汰される盗用問題からかけ離れた、作り手の真摯で切実な姿勢が見て取れる。大量に出回るような目立つ仕事も多々ある中、こういうつつましく静かに凄みを持った、丁寧な仕事も存在しているのだ。

舟越保武彫刻展「まなざしの向こうに」練馬区立美術館 9月6日まで。
そして兵庫県立美術館では、息子舟越桂の展示「私の中のスフィンクス」が開催中で、今月30日まで。観に行きたいが厳しい。同じ空間で、この親子の展示企画があれば素晴しいのだが。
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画像左:http://hi-to-ha.cocolog-nifty.com/hitoha/2013/05/post-68d6.html
画像右:http://ameblo.jp/withwitch2/entry-12004622815.html
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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