説明資料としての写真

07 08, 2013
写真を使って作品にするような人間なので、写真を撮ることは嫌なわけがなく、それなりに楽しい思いをしながらいつも撮っている。そして、その楽しさがどこにあるのかと言えば、それは写真になることで、何気ないものが何気なくなくなり、ただの光景がひとつのシーンとして確立する姿を、目視できるからだと思う。つまり大抵のものは、見た目以上の何かを秘めており、その見えない力を写真は引き出せるように思うからだ。なのでどうも苦手なのが、見たまんまのシーンを忠実にそのまま記録する、という主旨の撮影である。そこで必要とされることは、意図や偶然を全て捨て去り、ただその状況を説明するだけの資料として機能させることにある。しかし、写真というのは基本的に撮影者の意図の塊であり、自分が思う「見たまんま」が、誰もが思う「見たまんま」に繋がることはなかなかない。逆にその写真がどういう資料として使われるのかに合わせた都合を表現する方が、皆の思う「見たまんま」になることが多い。そういう撮影をしていると、どうも心が無表情になってくる。見るという行為も、いつもと同じ機能を使っているのに、全く別物のような気分になる。シャッターを切るタイミングにしても通常とは真逆といえる。感覚的な話になるが、何かが消えた時を狙っているのだ。光景には、たとえそこに動くものが無かったとしても、必ず何かしらの表情や気配があり、通常僕がシャッターを切るのは、レンズの向こう側にあるシーンの、その表情なり気配なりが現れたとか動いたと感じる時なのだが、資料用写真を撮る時はそれが反転する。なんとも盛り上がらない。もちろんこういう撮影は状況もシリアスなので、盛り上がってはいけないのだが、せっかく写真を撮るのであれば、そこに写される何かが、いかに魅力的かとか、いかに不思議か等々を写真にして、その力をさらに倍増させたいと思うのだが、それが余計なことなのだ。そういう撮影は、どうも疲労度が多い。気のせいか首の後ろがずっと痛い。
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駆け上る

08 28, 2012
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北海道でイサム・ノグチが作った山とご対面。
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いきなり真っ向勝負で駆け上がる。
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錯覚

04 07, 2012
冗談のように仕事が詰まってきて、身動きがとれなくなり少々戸惑ってしまうのだが、こういう時にいいのは桁外れなアートへ思いを馳せるに限る。荒涼とした空間(ニューメキシコ州カトロン郡の砂漠)にステンレスの棒を均等に埋め込み、雷が落ちるのを待つ作品とか、地中に1キロの長さで棒を埋め込んだ作品(見えるのはほんの少しの先端しかないゆえ、ほとんど認知できない)とかだ。こういう実在しつつも伝説のような作品は、写真でしか見れない。そこへ行くには、海外へ飛びレンタカーで4時間以上走らないと辿り着けない。たぶん実物を見る時間は一生取れそうにない。しかもたとえそこへ着いたとして、タイミングよく雷が落ちる程現実は甘くない。事実その棒への落雷は17年間で9回だそうだ。こういう人間を中心とした時間を無視する作品の壮大なコンセプトを思うと、自分が引っ掻き回されている仕事の規模との落差を実感できて笑えてくる。ウォルター・デ・マリアの作品は直島でいくつか観たけれど、できればいつか、ギャラリーを土で埋めた「アース・ルーム」ぐらいは観たいと思う。頭で理解することと体験することの差は、限りなく大きいのだ。身動きを縛る要素が、世界の全てのように思えてしまうが、それは大きな間違いだ。
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画像:http://theredlist.fr/wiki-2-351-382-1160-1122-view-usa-profile-de-maria-walter.html
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画像:http://tsuchiyastudio2011ma.blogspot.jp/2011/05/new-york-earth-room-1977.html
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誰のために

01 12, 2012
去年、ある映画の感想として「僕は自分のために働く」的な文章を書いたところ、色んな場所でその感想なり意見を頂いたので、少し補足しようと思う。

もちろん働くということは、その対価としてお金をもらうわけで、タダで動くわけではない。そこには責任というものがある。であるから、自分のためだけではなく、○○のためという相手が複数存在することは間違いない。
しかしここからなのだが、仕事の種類は色々あり、特にクリエイティブという分野になると、相手を喜ばせなくてはならない。なぜなら、それがないと信用が得られないからだ。ただそこには明確な到達点がない。そうなると「誰がやっても同じ」という仕事のやり方は成立しない。「任せられた」という責任がそこには在り、仕事に個性を出さねばならない。ここを踏まえると「誰がやっても同じ」というやり方ではアウトなのだ。相手に「なるほど」と思わせる何かが必要になる。そこで、その仕事の完成度をあげる絶対的な要素とは何か、と考えると○○が納得しそうな何か、を平均的に仕上げる以上に、自分が本当にそれでいいと思うのか、という「問い直し」が必要になる。それがその人の「表現」であり、依頼に対する応えに繋がると思う。
ただここで難しいのは、そのプレゼンを受ける側に、判断を自分で下す力を持っている人か、そうではない人か、という分かれ目がある。そうではない人に対しては、私がこう思ったという考えよりも、世間ではこれが流行ってます的な言葉の方がうける。しかし、これは変わるべきだと思う。よく言い訳をする人は「~がそう言うから。そういうキマリだから」的なことを発言するが、それは仕事において自分を消している人、ではなかろうか。(繰り返す、そういう種類の仕事があることもわかる。ぶっちゃけ多くの仕事はそういうものだ)

マニュアルというモノが、僕はどうも好きになれない。それがあることでスムーズにビジネスなり接客が進むのかもしれないが、その機械的対応に満足する人などいないし、何らかの相関関係が生まれるとも思えない。失敗は少なそうだが、仕事としての存在感が出るとはとても思えない。いま求められているのは、無難なやり方ではなく、「あなたはどう考えたのか、どう応えるのか」というその人ならではの思考ではなかろうか。「雇い主のためではない、自分のために動く」とは、そういう意味で書いた。社長だって、そういう社員の方が嬉しいと思う。少なくともそういう人は、失敗を他人のせいにはしない。

と、ここまで書いて思ったのだが、芸術を僕は自分のためにやっているかが、少々怪しくなった。これに関しては、たぶん使命としてやっている。生活上アートをやることで、失う部分は多い。とくにお金の減り具合は尋常ではなく、明らかにやらない方が懸命だと思う。しかし、そうできないのは、誰にいわれたわけでもない「自分の役割」があるように思えて仕方がないからだ。今これを僕がやらなければ、誰もやらないだろう。それはなんだか残念ではないか、という実に説明しづらい思いがあるのだ。これに関しては、自分のためでも家族のためでもギャラリーのためでも観てくれる方々のためでもない。それ以外の「大きな流れ」というか、つまりは何かの可能性を拡張するためだ、というしかない。
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普通の文書

06 24, 2011
文書というものは内容が重要で情報が正しく伝われば問題ない、という考え方はわかるがあまり賛成できない。仕事上パワーポイントというソフトを使うことがあって、このソフトで作る文書はどうしても美しくならない。それは書体であれカラーリングであれ、綺麗に見せるという概念が欠落しており、効率優先が生み出した嫌なもののひとつだ。
文字と文字の間には適切な空間があり、そこに気を使うだけで文章が飛躍的に読みやすく美しくなる。ブログもしかり。やたら改行が多くてスカスカだったり、文字が突然大きくなったり色がめまぐるしく変わったりすると、素晴らしい内容がそこに潜んでいるのかもしれないが、ほとんど読む気がしなくなる。 見ていたくなる字面と、目を背けたくなる字面があるということだ。そんな思いが澱のように溜まっていた時、川上未映子と多和田葉子の対談を読んで、とても共感できた箇所があった。以下引用。

本をパッと開けたときに「ああいい顔だなあ」と思うんです。意味と同時かそれより少し先に活字が目に飛びこんでくる。立体的なレース模様みたいな感じで、レースの模様はそれ以上意味が出てこないけれど、文字は意味があるから二度おいしいみたいな。(川上未映子)
素早く意味だけを追って読書するには、文字を見ない方がいいんだけど、どうしても見えてしまう。私はそれを「文字のからだ」と呼んでいるんだけど、文字が絵として戻ってきて読書の邪魔をする。そういう読書の面白さというか、難しさというのは非常に重要なことです。(多和田葉子)

これは、活字としての漢字とひらがなのバランスやリズム感の重要さはもちろんのこと、その文章の個性や在り方を視覚的に判断する発想で新鮮だった。ただ綺麗にするのではなくさらに進んだ書き方がそこにはあるようだ。ちょっと意味が違うが、普通の文書を「いい顔」で書けたとしたら、それはたぶん「いいデザイン」かもしれない。

原 研哉が、もう細かい書体の差は必要ないと以前講演で言っていた。標準的な明朝体とゴシック体があれば、後は文字間と行間の完成度を上げることで、なんとかなる的な内容だったと思う。そういえば、その背後に写されていた彼の概念を説明する図がとても美しかった。どうというこのとない線画なのに、スッキリしっかりしているのだった。こういう差はほんの少しなのかもしれないが、 限りなく大きな差でもあるんだよなあと思った。 
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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