説明資料としての写真
07 08, 2013
写真を使って作品にするような人間なので、写真を撮ることは嫌なわけがなく、それなりに楽しい思いをしながらいつも撮っている。そして、その楽しさがどこにあるのかと言えば、それは写真になることで、何気ないものが何気なくなくなり、ただの光景がひとつのシーンとして確立する姿を、目視できるからだと思う。つまり大抵のものは、見た目以上の何かを秘めており、その見えない力を写真は引き出せるように思うからだ。なのでどうも苦手なのが、見たまんまのシーンを忠実にそのまま記録する、という主旨の撮影である。そこで必要とされることは、意図や偶然を全て捨て去り、ただその状況を説明するだけの資料として機能させることにある。しかし、写真というのは基本的に撮影者の意図の塊であり、自分が思う「見たまんま」が、誰もが思う「見たまんま」に繋がることはなかなかない。逆にその写真がどういう資料として使われるのかに合わせた都合を表現する方が、皆の思う「見たまんま」になることが多い。そういう撮影をしていると、どうも心が無表情になってくる。見るという行為も、いつもと同じ機能を使っているのに、全く別物のような気分になる。シャッターを切るタイミングにしても通常とは真逆といえる。感覚的な話になるが、何かが消えた時を狙っているのだ。光景には、たとえそこに動くものが無かったとしても、必ず何かしらの表情や気配があり、通常僕がシャッターを切るのは、レンズの向こう側にあるシーンの、その表情なり気配なりが現れたとか動いたと感じる時なのだが、資料用写真を撮る時はそれが反転する。なんとも盛り上がらない。もちろんこういう撮影は状況もシリアスなので、盛り上がってはいけないのだが、せっかく写真を撮るのであれば、そこに写される何かが、いかに魅力的かとか、いかに不思議か等々を写真にして、その力をさらに倍増させたいと思うのだが、それが余計なことなのだ。そういう撮影は、どうも疲労度が多い。気のせいか首の後ろがずっと痛い。
