他者の可能性

11 27, 2019
人をどこまで信用するか。ここに挑んだ「BOOK ROAD」という小さな古本屋がある。販売されている本は一番安くて300円、高いと1000円。品揃えは小説、新書、ビジネス、哲学、歴史、美術、デザイン、写真、エッセイ等幅広い。こう書くと一般的な古本屋かもしれないが、この店が他の本屋と決定的に違うところがある。それは無人であるということ、つまり店員がいない。では、どうやって本を購入するのか。店の隅に300円用と500円用のガチャガチャがある。そこで300円の本を買う場合、300円用のガチャガチャをやると、プラスチックボールに入ったビニール袋が出てくる。この袋に本を入れて購入終了。800円の本が欲しい場合は、それに500円のガチャガチャをプラスする、そんなシステムだ。自分の蔵書を古本として売り始めた店主は、会社に通勤するため平日は店に立てない。そこでこの手法を考えたらしい。「それで大丈夫なのか?」と思うが、問題ないようだ。逆に、知らぬ間に本が増えていたり、勝手にCD売場が作られたりするようで、意外な恩恵があるとのこと。場所は、三鷹駅から徒歩15分ほどの住宅街の一角。営業時間は24時間ということで、実際に行ってみた。ネットに出ていた写真と比較すると、置かれている本はだいぶ少ない。そして想像以上に店が小さかった。友達の部屋にある本棚を眺める感覚に近い。しかし、どんな本があるのかを見て、その一冊を手に取り拾い読みし、別の本を手に取り目次を確認し、みたいなことをしていると、次第にその狭さが気にならなくなり、逆に「本屋にたったひとり」という嬉しさがこみ上げ顔が綻ぶ。ビジュアルは貧相だが、誰もいない場所で、少ないとはいえ200冊程度の本全てが読み放題、店員もいないため誰の目も気にする必要がない。これは味わったことのない快感だった。本というのは著者渾身の思いが凝縮された創作物で、それらに無心に触れ続けていると疚しい気持ちが薄れてくる。もうちょい人生頑張ってみるかと思ったりもする。ガチャガチャのキャラが描かれ「念のためのカメラが回っています」というぐだぐだの書き置きがあるが、見たところ何処にもカメラらしきものはない。通常、店には管理者がいる。店に訪れる人は、その管理下で商品を購入するわけだが「そんなもんいらなくね」という逸脱がここにある。勿論、店主はガチャガチャのお金を回収したり、古本を整理したりという管理をするわけだが、それらを最小限に留め、あとは客に放任したわけだ。この潔さ。しかも、野放図に音楽エリアが増設されて本が増えるという奇跡のような場所になっている。現在、店主は会社を辞め、吉祥寺に「BOOK MANSION」という本棚を分割して貸し出す新たな本屋を始めている。本屋で本を買う人ではなく、本屋になって本を売りたい人を客にするという逆説。棚を77分割し1スペース1ヶ月3850円で貸し出し、売れた本のフィーは1冊ごとに100円。加えて、借りた人が店番も順番で行うらしい。要は1つの店の中に77種の本屋が集合していることになる。実際「問いが見つかる本棚」だの「戦国棚」だの各スペースの個性が様々にあり、本が持つ世界の広さを堪能できる。あまり関係ないが、500円以上本を買うと綿飴も作れる。共通して思うことは、やはり放任の心意気か。間違いなくこれまでの常識以上に「他者の可能性」を信じているからこそできるビジネスなのだろう。僕はあまり人を信用できない。裏切られたことも少なくない。どちらかといえば疑り深い人間だ。だからこそ、このような店主の所業を知ると、自分の概念を壊される。しかし、その亀裂を兆しに自分も脱皮したいとも思う。
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見えてはいるが見てはいないような状態

10 13, 2019
僕の視力は0.02。裸眼での生活は不可能だ。眼鏡がなければもう何も見えない。ピントが合うのはせいぜい20cm。以前、裸眼で視力を計られた際、僕が言った台詞は「どこを指してますか?」だった。しかしそんな僕でも風呂は裸眼で入る。眼鏡と風呂は合わない。さて先日、銭湯で眼鏡を持っていかれた。他人の眼鏡なんて役に立つわけないから、すぐに返却されるだろうと思っていたが、あまかった。僕が時々通っている銭湯は、サウナと檜風呂を楽しもうと思う場合、別料金を支払う。その際、靴入れの鍵と交換で黄色いバスタオルが入った透明バッグを渡される。更にそのバックには番号が付いており、それが誰の物かを判別する印となる。そしてこの日に限って、僕は眼鏡をかけたまま中に入ってしまい、仕方なく透明バッグに眼鏡を入れて長風呂を楽しんでいた。そしてあがる際、自分のバッグがなくなっていることに気づいた。番台のおばあちゃんに事情を説明するも、なかなか要領を得ない。そもそもバッグを間違っている時点で靴箱の鍵と合わないから、間違えた本人がバッグを戻して欲しいところだが、その本人が常連のおじいちゃんだったようで、番台のおばあちゃんはそのまま靴箱の鍵を渡してしまったらしい。バッグの中に眼鏡はなく、おそらく常連のおじいちゃんが持ち帰ったのだろう。番台のおばあちゃんは毎週来るから聞いてみると言ってくれたが、望みが叶うとは思えない。あの日、遠近感も輪郭も曖昧となった風呂のような世界を漂いながら僕は帰宅した。やはり眼鏡はロッカーに戻しておくべきだった。当然ながらその後の連絡はない。まあ安く作った眼鏡だったし、諦めて新たに作ることにした。しかし今度はその新しい眼鏡が合わず、暫くしてから鼻の付け根が痛くて仕方がない。パッドみたいなものがあると知り、それを眼鏡の鼻当て部分に装着して暫くごまかしたが、やはり合わない。そしてある時、昔の眼鏡をかけてみた。これだと視力がせいぜい0.3程度しかない。しかしこれが意外に新発見だった。ようやく言いたいことが言えた。僕の目は明らかに老眼も入っており、ピントを合わせる機能が低下しているため、1.0の眼鏡だと本もスマホも見えてはいるが見てはいないような状態となるため、読むという行為の際は、眼鏡を外して対象を目に近づけて裸眼で読むようにしていた。その方が「しっかり読んでいる」という確かな感触が得られたからだ。そして今回の発見は0.3の眼鏡だと眼鏡を外さなくても、本やスマホの文字を「しっかり読んでいる」感触を得られたことだった。確かに周囲の光景はぼんやりしてしまうし、人の顔もよくわからなくなる。でも思えば、今更他者の顔を明確に見る必要性などないし、通勤時に広がる周囲の不機嫌な顔など逆に見えない方がストレスがない。しかもその分眼鏡が軽いしレンズも薄い。これはいい。1.0の眼鏡は短時間であれば大丈夫なので、映画鑑賞用にでもすればいい。発見であった。今度眼鏡を作る時は「視力を0.3程度に合わせたレンズにしたいのですが」ということになる。さて、こういうオーダーを店員は聞いてくれるのだろうか。
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誰かの判断の痕跡

05 01, 2019
自転車が気持ち良い季節になり、かつ晴れ間が続き、暫くバスに乗っていなかったのだが、先日から雨模様となり、久しぶりに駅までバスに乗った。そして、記憶の光景が随分古いものであったことを知る。セブンイレブンが閉店し、歯医者だった建物がまるごと消滅していた。公認会計士の事務所が空き物件となっていたことまでは覚えていたが、そこには足ツボマッサージが入っていた。其処此処でも新しい季節が始まっていたのだなあと思う。それぞれの決心があって、何かが終わり何かが始まるのだ。そこに関わる方々の思いのほどを僕は知る由もないが、記憶と違うその場所を見る時、そこにいた誰かの判断の痕跡を知ることにはなる。この歳になると、変化よりも安定に心地良さを感じるが、否が応でも変わる時は変わる。気づけば平成が終わり、令和となった。
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無意味な断片イメージの連続波状攻撃

01 31, 2019
約10年程、家族全員インフルエンザとは無縁だったので、インフル無視の生活を継続していたら、己れの愚かさを知れとばかりに自分自身が感染してしまい、高熱が持続する苦しみを初めて味わった。背中の痛みを過剰に意識した翌日体調の変化を無視できず、病院で体温を測ると38.8度、鼻に棒を突っ込まれ感染を告げられ、薬局で薬を吸い込むと、それ以上やることはないらしい。悪寒は酷かったが、まだまだ冷静だったし仕事の引継ぎを遠隔で済ますと、後はこれから一週間、僕は何もせずに寝てていいのか?ということになるのだった。予想外の自由時間到来、とばかりに読みかけの本を何冊か抱えて布団に潜り込み、さあ楽しもうと思ったのだが、なかなか内容が入ってこない上に寒気が悪化し、頭痛のくせに全身が圧迫される。仕方ない読書を諦め、睡眠に集中するかと思い目を閉じるのだが、とてもでないが寝ていられない。どうでもいい断片的なイメージが連続的に脳内を掻き乱す、顔を顰め何度も寝返りを繰り返すが安定は得られない。己れの呑気さと高熱の苦しみを実感し、愚か者らしく何時間も悶え続けるしかないのだった。状況が変わったのは、妻が作ってくれたお粥を食べてからだ。ひとくちの有り難みを実感した。お腹が満たされ、安定が得られそうな気配と布団に包まれながら、再度寝たのだが、気がつくと今度は汗が止まらない。下着が濡れる感じは初めてだった。実際かなり濡れていたので着替えると、高熱感が随分弱まっている。布団に横たわる。目を閉じても無意味な断片イメージの連続波状攻撃も弱まっている。ああ、ようやく寝れるのだと思う瞬間だった。
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適度に動き続ける行為

01 12, 2019
だいたい二週間に一度、漠然とした疎外感に取り巻かれる。定期的に来る症状なので「ああ、またその時期がきたな」と客観的には判断できるものの、そのやるせなさが消えるわけではない。対処法としては、なるべく些細な(ルーティンワークを続けるという類の)行為に集中するようにしている。いわば自分を理性だけで強引に動かす。暫くは、かなりの違和感を覚えるものだが、こういう行動を無理くり続けることで、少しづつしかし確実にやるせなさや漠然とした疎外感は薄まってくる。行動の強さを思う時だ。身体と頭が動くことで、何かが正常なバランスに戻るんだと思う。そして、静止状態の不自然さが招く余計な妄想の怖さを思う。適度に動き続ける行為が含む意味の多様さを思う。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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