適度に動き続ける行為

01 12, 2019
だいたい二週間に一度、漠然とした疎外感に取り巻かれる。定期的に来る症状なので「ああ、またその時期がきたな」と客観的には判断できるものの、そのやるせなさが消えるわけではない。対処法としては、なるべく些細な(ルーティンワークを続けるという類の)行為に集中するようにしている。いわば自分を理性だけで強引に動かす。暫くは、かなりの違和感を覚えるものだが、こういう行動を無理くり続けることで、少しづつしかし確実にやるせなさや漠然とした疎外感は薄まってくる。行動の強さを思う時だ。身体と頭が動くことで、何かが正常なバランスに戻るんだと思う。そして、静止状態の不自然さが招く余計な妄想の怖さを思う。適度に動き続ける行為が含む意味の多様さを思う。
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可変と不変の絡み合い

01 01, 2019
テレビが壊れて以来、家にはテレビがなかった。無ければないでなんとかなるもので、そのままテレビを見る習慣自体が消えてしまい、少なくともここ2年ぐらいはテレビを見ていなかった。今回ある事情で年末にテレビを買った。時期が時期ではあったが、あっさり購入できた。随分と軽くなっていた。以前家にあったテレビよりも大きいのに、重さは半分以下ぐらいの印象で、時代の経過を感じた。ただ、受験生がいることもあり、設置はしたもののテレビをつけることはなかった。そして昨日、大晦日ぐらいはいいかと思い、テレビを見たのだが、ニュースや天気予報を見るだけで新鮮だった。ああ、説明してくれるんだと思った。その代わり、こちらが理解できない状態でも次のニュースは容赦なく始まってしまうのだった。当たり前だが、そんなことに一々感心していた。晴れや曇りのマークはあんなに動いていただろうか、番組の進行や画面の切り替えは、こんなに慌ただしかっただろうか、紅白も見たが、知らない人だらけである一方で「希望の轍」を聞くことになるとは思わなかった。言い尽くされてはいるが、全くもって変わるものと変わらないものが同時に共存していた。そして更に、その変わった中でも変わらない部分があるし、変わっていない中にも変わった部分があるのだろう。可変と不変の絡み合いをテレビを見ながら感じた。
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その不条理に悶絶

01 30, 2018
娘が小学校2年になった時から、1年に1度スキーに行くようになった。毎年娘はその日を楽しみにしているようで、今回も1週間前から準備をしていた。そして、明日出発という金曜の夕方、声に異変をきたし妻から熱を計られ、結果は38.9度。娘はかなりの健康体で、まず風邪をひかない。学校も1年生の頃から休んだことながい。どれだけインフルエンザが流行しようが、学級閉鎖になろうが関係がなかった。親としては本当に助かっており、健康に関しては全く心配したことがなかった。その娘が熱を出した。おそらく5年ぶりぐらいだ。娘は日頃から風邪に憧れており、それで学校を休むことを、一度でいいから実現させたいと話していたが、まずそれは無かろうというのが、本人含めた家族の見立てであった。その均衡がついに破られることになった。しかし、休むのは学校ではなくスキー旅行だが。
傍目にも気の毒になるほど娘は落胆し、目を赤らめ何度も熱を計りなおし、これは風邪ではない、こたつに入り過ぎたからだ等、無駄な抵抗を壊れかけた声で主張していた。しかし、世間ではインフルエンザが大流行中であり、親としては完全に明日は朝一で病院だという思いしかない。スキー旅行が無くなるのは、確かに残念だが、こんな状態でスキーをするのは許されない。娘は悔しそうであった。よりによって発熱が何故このタイミングなのか、その不条理に悶絶していた。あまりに可哀想なので、明朝もし熱が下がっていたら考え直してもいい、そう提案すると、目の色を変えて従順になり、夕飯をしっかり食べ終えると、通常指摘されるまで行わない歯磨きを自ら率先して行ない、大人用の風邪薬を1錠飲んでいた。大人は3錠だから1錠で良いと判断したのだろう。そして、直ぐさま布団に入ると固く目を閉じ、動かなくなった。その努力は認めるが、報われることは無かろう、そう思った。そして次の朝、布団の中で妻に熱を計られる。結果は38.4度。まあ、そんなもんだろう。現実とはいいことばかりじゃないからさ。しかし、朝食が終わり暫くすると、ドヤ顔で体温計を突きつけてきた。36.9度となっている。それはないだろうと思い、目の前で計ってもらうと今度は36.8度だった。確かに顔色も正常に戻りつつある。声はまだだが、熱は確かに下がっていた。「旅館にだけでもいいから行きたい」そう娘は主張する。
結局、スキーは明日の様子を見てということになり、旅行には出かけた。出発直前に計ったら36.4度だった。大人になると、一旦風邪をひくとそれなりの過程を経ないことには元に戻らないが、子供は突然治ったりする。その辺りの構造がよくわからないが、成長過程の真っ只中にいる存在は大したものだと思った。翌日は声も治り、親以上に滑りまくっていた。僕は後を追うだけで精一杯だった。
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素因数分解の可視化

12 07, 2016
素因数分解を可視化する動画
数には個性があるということらしい
http://www.datapointed.net/visualizations/math/factorization/animated-diagrams/
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岡山芸術交流「開発 Development」

11 22, 2016
岡山芸術交流「開発 Development」を娘と回ってきた。ちょうど1日歩き回る感じでほぼ全てを観ることができ、理想的な規模感だった。作品がどれも予想以上に大掛かりなものが多く、難解なタイプが少なく、プレゼンテーションも美しいものが多々あり、久しぶりに作品を観る喜びに満たされた1日となった。
前日に3DSをやり過ぎて睡眠不足であった娘の機嫌は、最悪そのものであったが、巨大な隕石的物体の落下現場や、桃太郎を考察しながら粘土をこね回す映像や、建物内部を突き抜けるカラフルな骨組みを観るうちに気分が反転し、変形パターゴルフコースの作品で実際にホールインワンを偶然決めると、笑いが溢れるようになっていた。アートの力をリアルに実感する時だ。映像作品も多かったが、それらがどれも10分程度であったのもありがたかった。娘はどういうわけか、映像に目が吸い寄せられる傾向があり、次々と全く違うイメージや構造の映像作品達を、歩きながら場所を変えてそれぞれ観ていく体験は、相当刺激的だったのではなかろうか。何より作品を一気に観るのではなく、しばらく歩いて気分の鮮度を巻き戻せるのがよく、各展示の距離感が絶妙だった。新潟は車がないと不可能だが、ここにはそういうストレスがなく、地図を見ながら見知らぬ街をうろうろ歩くのは、オリエンテーリングそのもので、親子でも充分楽しめた。
こういう国際展のやり方について様々な議論があるのだろうけれど、アーティスティックディレクターとしてのリアム・ギリックの手腕とアーティストの選択は見事だったと思う。アウトプットが異なる作品達が大小織り交ぜ、次々と出現してくる感じは全く飽きることがなかった。大抵この手の展示は見逃す作品があったり人が多過ぎて、フラストレーションがどこかに溜まるものだが、今回それが全くなかったことは驚きだった。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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