イースト菌と天然酵母の違い

01 08, 2016
管理し易い人達というのは、行動もしくは思考にばらつきがない集団ということになる。確かに、勝手かつ予測不可能な動きをする人達を管理するのは、難儀としかいいようがないが、その集団の仕事が個人の意志と乖離した機械的行為に終始するのであれば仕方ないが、問題解決に際し何らかの創造性を求められる場合、行動もしくは思考にばらつきがある集団の方が、思わぬ結果を出しそうで魅力的ではなかろうか。(そういう博打を管理者は嫌うのだろうが)

パンを膨らませる時に必要とされるイースト菌と天然酵母の違いは、前者が「膨らます」という機能のみに特化された菌であるのに対し、後者は菌の個性がバラバラなので、膨らます機能を持ちつつも別の要素を含んでいる。例えば酸性に強い弱いとか、たんぱく質が好き嫌いのような感じだ。つまりイースト菌は、人間で言うと管理し易い者だけを選抜し複製し、言うことを聞かない人間や怠け者を次々に排除した集団ということになる。ただそこにも問題があり、培養時に薬品を使用したり放射線をあてたりという反自然的な過程を経て作られる場合もあるということ。強制的な研修で洗脳された集団と呼んだらまずいだろうか。 とは言っても、現実問題イースト菌を使ったパンは大量に出回っているし、それによって家庭でも容易にパン作りが楽しめるし利点が多々あるのが実状だ。ただ本当に「良いパン」を作ろうとする場合は天然酵母の登場になるし、それをうたい文句とした商品もある。天然酵母で作られたパンというのは(管理しにくい個性派集団の都合に合わせて作られたと言い換えてもいい)酵母内の様々な菌が複雑に絡み、味に奥行きがあり美味しいらしい。問題はコストと管理というわけだ。

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 渡辺格(講談社)
本書は、こういった菌なり素材の在り方を最優先し、効率や管理のし易さ度外視でパン作りに生活を賭けた職人の話しである。全ての材料から人間の都合を外し、素材の都合を優先することで、自然の摂理に合わせたパンを著者は追求する。そして「金」を「菌」に置き換え、新しい仕事の在り方を田舎で実践してきた。その生活はとても魅力的に映る。週休3日で冬はひと月休むそうだ。お店の場所は非常に便が悪いらしいが、全国からお客が訪ねてくるらしい。そこで、手塩にかけた自信作を正当な価格で売り、喜ぶ生活者の顔を確認することで次のパンを作るモチベーションにする。大量に出回ることはないが、家族が生きる分には充分な収入がそこにはあり、地元素材を使用することで、周囲の事業も活性化しているとのこと。効率重視によって排除されてきた様々な要素が復活し、魅力を放っているだろう空気がそこには感じられる。作者は「腐らないこと」の異常さを最大限活用したものがお金であって、今その「腐らないお金」によって多くの歪みが生じていることを指摘する。時の人なのか昨日の朝日新聞に談話が載っていた。以下はその結びのあたり。自分が満たされて働くこと、暮らしている地域が豊かになること。ふたつが重なり合うところに幸せがある。それを可能にするのは循環であって、利潤の確保ではない。「金本位制」→「菌本位制」「金融系」→「菌遊系」腐らない金を腐る菌に置き換えることで、著者は生きる方向を確保したようだ。

自分の話になるが、どうも働く現場において上層部からの妙な締め付けが多い。仕事と無関係なことでも管理し、従えたいという思いがビシビシ伝わってくる。それは別にどうでもいいのだが、怖いのは管理される側の弱い人が、与えられる意志に積極的に同調することで自分のアイデンティティーを確立し、強い人間になったと勘違いする場合だろう。本日の朝日新聞に中村文則の文章があった。以下抜粋と要約。
格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人々がなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合がある。これは世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に「弱い立場」の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく「強い政府」と自己同一化 を図ることで自己の自信を回復しようとする心理が働く流れを指摘している。経済的に大丈夫でも「自信を持ち、強くなりたい」時、人は自己を肯定するため誰かを差別し、さらに「強い政府」を求めやすい。当然現在の右傾化の 流れはそれだけでないが、多くの理由の一つにこれもあるということだ。今の日本の状態は、あまりにも歴史学的な典型の一つにある。いつの間にか息苦しい国 になっていた。
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Merry Christmas and Happy Birthday Mama!

12 24, 2015
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普通の人

09 30, 2015
普通の人は大抵「普通のこと」が完遂出来ずに、諦めるなりごまかしたりする弱さを合わせ持った人のことであって、本人が思うことを困難を克服しつつも着々と遂行できれば、それは普通の人ではなく、かなり特別な人ではなかろうか。

「職業としての小説家」村上春樹(スイッチ・パブリッシング)
僕が初めて村上春樹を読んだのは大学生の時で「ノルウェイの森」だった。奥手な僕は、その同い年くらいに設定された主人公が絡んでいく女性達との奔放な行為に衝撃を受けつつ、そこで繰り返される、やたら長い会話とビールを飲む回数と「やれやれ」に象徴される冷めた空気に感動していた。確か場所も同じ国分寺だった。以降、たぶん彼の著作は全て読んだ。

有名なのかもしれないが、まず英文で書いてから日本語に訳して独自の文体を構築した話や、楽器を演奏するように文章を書き連ねるイメージ、といった細かな逸話が、実にしっくり腑に落ちるのだった。そして、僕が読む頃には絶大な人気に裏打ちされた賛辞しかなかったように思うが、そんな当時でも相当な非難を浴びていたこと知った。そのベストセラーぶりに業界内で嫉妬心が渦巻いていたのだろうか。

オリジナリティとは何かという話が出てくる。これまでも様々に議論されてきたことだが、そこを実にシンプルに語っている。ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」を初めて聞いた瞬間、知識がなくても古いラジオの貧しい音源からでも、その「今までに全く聞いたことがないのにかっこいいサウンド」が当時15歳の少年でも充分理解でき「ぞくっ」としたこと、それこそがオリジナリティなのではないかという部分、異論がある人は少なそうだ。ただその一発だけではなく、そこからの進化がその後の作品に必要なこと、そしてその表現が時を経て古典へと昇華していくことが、オリジナリティの条件として加えられていたが、確かに理屈や説明を越えて、その作品が他者に未体験を味わえさせられるかが重要というところ、調度盗用問題で世間が湧いていただけに素直に理解出来ると共に、消費社会の流通速度の影響で、アレンジやサンプリングといった手法が表現の本流になっている今の現状が、なんだかもの悲しいのだった。もう急ぐのはうんざりという人も多かろうに、さらなる加速をこの世は求めている。

小説家とは破天荒な堕落した生活と共に在るのではなく、規則正しい生活と健康な身体を維持する努力が必要なのではないか、という村上春樹特有の持論は賛否が分かれるだろう。確かに異常な体験をすれば書く内容も蓄積されるが、そういう経験をせずとも小説は書ける、という話に僕は勇気をもらった。もちろんそこには、日常を異常に見るといった本人の想像力が過分に試されるわけだが、特別な体験をしなければ特別な作品は作れないわけではない、というところ重要だろう。

僕は「普通の人」だと村上春樹は言っているが、間違いなく普通ではない。ただあそこまで成功した人でも自分自身を特別と思わない感覚は、どこまでも自分に対し厳しい姿勢を崩さない意志でもあるのだろう。初めて書かれた「風の歌を聴け」の冒頭は「完全な文章などといったものは存在しない」というフレーズで始まるのだが、何かの暗示を感じるのは僕だけだろうか。どうかその健康を維持して長生きし、作品を書き続けてほしいと思う。
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会話の摩擦感

04 19, 2015
ずっと神奈川県で育ち、今も調布に住んでいるので、僕には標準語が染み付いているのだが、家では関西弁的な話し方をしている。「~やんな」とか「そうやで~」みたいな部分が僕はどうも好きらしく、京都出身である妻の口調に合わせていたら気持ちが良いので、以後そのまま使っている。しかし本物の関西弁が行き交う妻の実家で話す勇気はないので、そこでは標準語に戻る。英語でしゃべるのを躊躇する日本人みたいだ。そしてその関西弁空間は、明らかに標準語空間よりも会話の摩擦感が少ないように感じる。そのためか、途切れることなくおしゃべりが延々と続く。(僕はずっと傍聞?している)話せば話す程に連続して発語できるとか、ひたすら気分が高揚するとかいう要素が関西弁には多分に含まれているのではなかろうか。また僕だけかもしれないが、関西弁で話しかけられると、相手が自分に対してなんとなく親しげな印象を持っているように感じてしまう。

「逢沢りく」ほしよりこ(文藝春秋)
心が凍った東京人(美貌の女子中学生)が、理不尽な事情により関西弁空間に浸かることで、氷の心がゆっくりと溶けていくハートウォーミングな話しとして評判になっている。涙腺崩壊とか言われているが、僕は絶妙に配された会話の妙味にしびれた。シリアスな会話の横で、実にどうでもいい話しで盛り上がっている親同士とか、こちらが言っていることを別の方向で受け止め、一方的にまとめられてしまうところとか最高だった。関西人の妻と義母と義姉の話に入れない東京人の僕にとっては、深く頷ける部分が多々あった。またサラサラと描かれた絵がコテコテの関西弁に上手く調和しており、読み始めに覚えた違和感も中盤を過ぎる頃には流れるように読めてしまう。これも関西弁的空気抵抗感の演出だろうか、著者の力量を感じるところだ。
関西弁で繰り広げられる妻と義母と義姉の話を聞いていて思うのは、重要な案件とそうでもない案件が混在していることだ。であるから心半分に聞いていると、とんでもない内容を話していたりする。それがどれもこれも同じテンションなので油断できない。本書でもそういう流れが多々ある。ここは関西的あるあるネタの披露だなと弛緩して読んでいると、いきなり予想外の事実が発覚したりする。ああ関西弁空間だなあと思う。関西弁に好意を持つ東京で育った人にとって、本書はたまらん旨みがぎょうさん詰まった話しやで。
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その理由は誰にもわからない

03 20, 2015
借金で困っていたラーメン二十郎の経営者が、スーパーコンピュータの指示通りに店を大改造して道路から5m引っ込め、出前用のバイクを店の前ではなく信号近くに放置し、店員を若い男2人にしただけで、店が大ブレイクしてV字回復、という話しがある。(業田良家「機械仕掛けの愛/自由ロボット ゴンドウ」)これは、全国60万件の飲食店から毎日得られる細かな情報を人工知能が分析して崩壊寸前のラーメン屋に適応させただけで、その適用箇所と売り上げ増加の因果関係は、答えを出したコンピュータにも指示した人間にも、もちろんラーメン二十郎の経営者にもわからない、というビッグデータのどうにも信じ難い雰囲気を良く表している。そしてこれはもう空想物語ではなく、それはリアルに社会に侵蝕してきている。

「データの見えざる手」矢野和男(草思社)
読み進めるほどに気分が滅入ってくる本は時々あるが、僕はどうにも「調査」とか「データ」と名の付くものに馴染めない人間なので、ここまでデータ重視の思考が蔓延している現実を知ると、なんともやるせない。どうやら人それぞれが持つ「自分だけの感覚」というものは、思う以上に自由が効かないらしい。著者は、人に装着するセンサを使い、8年間、1日24時間365日ずっと左手の動きを計測し、いつ自分が活発に動いたのか、いつ休んだのか等を視覚化し、著者の行動パターンを解析し続けた結果、自由に決定しているつもりだった意志でさえも、ある法則性を持つことを認めるに至る。宇宙や万物のあらゆる変化が「エネルギー」のやりとりであるように、意志や好みや感情で動いているつもりだった人間もそうではなく、どうやら同じ「有限の資源」をやりとりする中で動くしかない存在のようだ。以降本書には、様々なセンサを使用し得られたビッグデータで問題を解決した、日立製作所中央研究所(著者が主管研究長)の成果が羅列される。それはもう何かの自己啓発本のようだ。「休憩中の会話が活発だと生産性は向上する」「身体運動は伝染する、ハピネスも伝染する」「活気がある職場にすることが経営者の重要項目になる」「運も実力のうちから運こそ実力そのものへ」「ビックデータで儲ける3原則」等々、とどまることがない。「コンピュータvs人間、売り上げ向上対決」というのもあり、これはもうさっきのラーメン二十郎の話しそのものであった。ある店舗をモデルに、流通業界の専門家と著者のチームが売り上げ向上策で対決する。専門家は長年の経験を持って店長からのヒヤリングや事前データを元に、注力すべき商品群を決め、店内広告を設置したり棚の配置を改善する案を出した。一方著者のチームは、10日間店長や顧客の行動パターンを計測するセンサを付けてもらい、そこから得られたデータを人工知能に分析させた。いわゆる流通業界の常識や仮説を全く無視して改善策を打ち出す方向だ。結果人工知能は、店内のある特定の場所に10秒間だけ従業員の滞在時間を増やすと、顧客の購買金額が平均145円向上するということを定量的に示唆する。そこで著者のチームは、実際に従業員にその「ある特定の場所」にできるだけ滞在してもらうよう指示し、1ヶ月後の結果を待った、どうだったか。その差は劇的で、専門家の改善策ではなんの効果もなかった一方、人工知能案では売り上げが15%アップしたそうだ。専門家の悔しさを思うと言葉がない。ある場所に従業員が立つ時間を増やすだけで、利益が出るとはどういうことか。たぶん顧客の流れ方が変わり、それによってバタフライエフェクト的に何かの連鎖が始まるのだろうが、そんな明確な理由は誰にもわからない。しかし利益が出るのだ。これに飛びつく人間は多いだろう、結果だけを求める人が多いように。しかし、そこまで人間は盲目的に何かを信じてしまうのだろうか。そう思うのは僕が、切羽詰まっていない気楽な人間だからだろうか。ただ経済成長を求めて蠢く企業がこの「データの見えざる手」と手を繋ぐことを躊躇するシーンは浮かびづらい。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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