おそらくその「なんとなく」

09 29, 2019
あたり前のことだが、他者の判断に自分は関与できない。仕方ないことだし、ここを耐えねば生きてはいけない。それにしても、倍率にはどの程度の信憑性があるのだろう。高い倍率を制して選出されることは、その品質を担保する証明になるのかもしれないが、努力は倍率を凌駕できるのだろうか。こんなことを考えるのは無意味だし、そもそもコンペは、選別された何かのために存在するのであって、それ以外ではない。しかし、そこまで残ったならば最後まで残っていたかった、という結果が時々自分を翻弄する。さっさと忘れればいいことを反芻し、もどかしい思いを引き摺ったまま未練を断ち切れない時もある。今回1259篇のうち三次予選の12篇まで残りつつ破れたわけだが、それはあと一歩届かなかったと考えるべきなのか、そこには決定的な断絶があって、そこから先こそが勝負だったのか、審査される側からは決して見えないエリアがそこにはある。ただそれが、社会的な信用のフィルターなのだ。権威者の決定が伴うとはこういうことを意味する。しかし自分が審査する側に立つ時、選抜するしないの判断に明確な差異がないことも思う。なんとなくこれ、という判断を下す自分もいるわけだ。ただ、おそらくその「なんとなく」が重要なのだ。「なんとなく」気持ちを寄せてしまう要素があるかどうか。残る作品と残らない作品の差異、そのあわいをいつも彷徨っている。
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事実を知らずに都合よく捻じ曲げていること

04 11, 2019
証明写真というのは、どうしてああも酷い顔になってしまうのだろう。先日、社員証の更新で顔写真を撮ることになった。もちろん僕はいい年をしたおっさんなので、自分の顔に対して既に諦めているし大したこだわりもないため、何の抵抗もなく自動で撮影してくれる社内に設置されたボックスに入り、正面に写る自分の顔を見て椅子の高さ等を調節し、己の顔を機械に撮影してもらった。で「こんな感じで撮れましたよ、いいですか」という画像が出るのだが、これが本当に酷い顔であった。確かに素材に限界があるし、無理を言うつもりもないが、予想を遥かに下回る「萎びた小者」が呆然とした顔で写っており、数秒落ち込んでしまった。チャンスは2回となっており、正直自分に2回目など必要ないと思っていたが、2枚目を撮ることにした。今度は多少なりともまともな人間に見えるように、シャツのボタンを全て留め、胸を張り顎を引いて気合いを入れて、シャッターを切った。「はい、こんな感じです」と画像が映し出される。今度は「周囲に怯えた話にならない男」がそこにいた。全然駄目だと思った、これならまだ1枚目の方がマシに思える。そして「もう、どうでもいいや」と言う気分になった。自分の顔というのは自分で見えないため、知らぬうちに何かを修正してしまうのかもしれない。こんな中年真っ盛りのおっさんにも、そんな意識があったのかと思うと、事実を知らずに都合よく捻じ曲げていることが他にもあるのだろう、もう少し謙虚になるべきかもしれない、そんなことを思った。
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手をかければかけるほど

11 27, 2018
事情があり木材に様々な塗料を塗っている。そんな単純作業が実に気持ち良い。塗れば塗るほど作業が進み、丁寧に重ね塗りすれば表面はより美しく仕上がる。手をかければかけるほど時間をかければかけるほど結果が充実する作業だ。おそらく多くの仕事において、作業量と結果は必ずしも比例しない。だからといって効率的な時短と結果の最大化を合わせて追求するのも如何なものか。このような分かりやすい着地点が約束されていると、実に心穏やかに作業が進められる。手間暇かけることの重要さを思い出す。良いものはそう簡単にはできない、そんな真っ当なことに気づく。
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時間概念が薄らぐ

11 02, 2018
被写体を見ながら、僕は「今この時」と一体化するためにファインダーを覗いているんじゃないか、と思える時がある。というのは、被写体と自分だけの関係のみに集中する時、日常や過去や未来という時間概念が薄らぐことに、ふと気づくからだ。撮影している時、僕は明らかに何も背負っておらず、対象と一体化した実にシンプルな状態になる。言わば撮影を続ける限り「今この時」は終わらずに、僕は過去にも未来にも属していない状態になる。思うに、それはとても伸びやかな時間だ。通常そういう感覚になることはあまりない。今という時間は、過去と未来に挟まれており、そのどちらかの影響を受けざるを得ない。家族の今後なり、仕事の予定なり、過去に自分自身が行ってきた結果から自分が解放されることはない。しかし、写真を撮る「今この時」に関しては、それが消えている。過去も未来もない今だけだ。そう考えてみると、没頭状態とは時間との乖離を意味するのだろうか。つまり「今この時」を味わっている状態イコール、未来の不安なり過去の縛りからの解放、となるのかもしれない。「今を生きる」この使い古されたワードの意味が朧に見えそうな気がしている。
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気がつけば全く原型を留めていない

10 22, 2018
見直せば見直すほどに修正すべき点が見つかり、気がつけば全く原型を留めていない状態になってしまうことがある。内容を作り上げることと、それを人に伝えることの違いを思う。そして、伝えることを明確にすればするほど表層はシンプルになる、しかし逆に深層へのイメージが膨らみ、内容自体が深掘りされていることにも気づく。分かってもらうための配慮が隅々まで行き渡っているかどうかを突き詰めることで、逆に内容自体に磨きがかかるのだろう。「理解は快感を伴う」らしい。ただ思うことは、理解された内容とは別に、制作者が理解してもらうために考えたであろう工夫の方が、快感を誘うのかもしれないということだ。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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