ビジュアルを外した状態で感受する

05 05, 2020
ステイホームを体現すべく、ネットで映画ばかり見ている。そして、そこで偶然聞くことになったメインテーマ的な曲を、映画を見終わった後、数日おいたにも関わらず、どうしても脳内から抜けない場合、1曲200円もしくは250円とかでネット購入してしまう。そして、その曲を再び聞くことになる。そうなった場合、勿論その映画の様々なシーンが怒涛のように浮かんでは来るのだが、それ以外に思うのは、その曲自体の魅力に初めて気づくことだ。これが意外に新鮮な気分になれる。映画のメインテーマというものは、得てして映画そのものの物語や、主演俳優達の美しく強い個性によって成立しているのかと思っていたが、そうではないのかもしれない。その曲なり歌なり詩を切実に描いている人がいることを、ビジュアルを外した状態で感受するのが、素直に楽しいのだった。1日1回、食品を購入するために外出する。その際、このステイホーム中に見た映画の様々な音楽と共に外に出る。そんなことで日常の景色が、別の光景に変わる。全くもって、作る人達の力は侮れないのだった。
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意識していなかった微細な変移

04 23, 2020
本当にこんなことになってしまったと思う。中学2年生になったばかりの娘は、約2ヶ月閉じこもったまま、登校日もなにもかもが無くなってしまった。僕は奇数日だけ出社していいとされているが、基本はテレワークだ。時々電車に乗ると、本当に人は減ったと実感する。座る際も1人分の空間をあけて座るのが、通底する共通マナーになった。そして、見渡す限りほぼ全員がマスクを装着している。時々していない人がいるとかなり目立つ。感染者が259万人、死者が18万人。今後どうなるかの憶測が様々に飛び交っているが、こうなってしまった今「それはもう長期戦だろう」という意識が、嫌が応にも芽生えてくる。来週から「緊急事態宣言解除です」と急に言われても、なんの説得力もないし納得もできない。第2波の感染が始まる可能性を当然考えてしまう。
僕は「休日を好きに使っていい」と言われたら、喜んで家に引きこもる人間なので、この生活に関して実は然程のストレスを感じておらず、逆にやるべきことに集中できている。人に会わなくていいため、人間関係のトラブルに巻き込まれることもない。家族と1日中一緒にいられる安心感もある。しかし娘はそうでもなさそうだ。僕と同じで、学校が大嫌いだった為、降って湧いた連日の休みを当初は面白がっていたものの、こうも長期化すると表情が乏しくなり、計画的に勉強を続けるにも困難が伴う。驚くことに、本人の口からも「学校に行く意味は多少あった」という言葉が飛び出す始末。年齢的にじっとしていること自体が、不自然なのだろう。「散歩ぐらいの外出はいいらしいよ」とは言ってみるのだが、率先して外に出ることもなく、淡々とスマホを弄っている。そして、思春期そのものの頑なさで親を拒否る。駄目親の無力を実感する。じっとしていると、人間は良からぬことを考える傾向があるのだろうか。適度な外出行動にはどんな効果があったのか、そんな考えもしなかった意味が露呈してきている。ツイッターの「通勤の意味は気分転換だったのか」が面白がられたのは、それが言えて妙だったからだ。僕自身もガラガラの電車で時々通勤する時、体が場所を移動することで得られる体験とも言えない体験の蓄積、目に入る何度も繰り返し見た光景の変化に、知らず識らず適度な刺激を与えられていたことに気づく。意識していなかった微細な変移が、逆に安定を保つことに一役買っていたとは知らなかった。
会社なんて行かなくていいなら、ずっと行きたくない。そんな子供のような感覚が僕にはあったが、電話で打ち合わせをする時、無意味な会話をあえて続けてしまったり、チャットに関係ない言葉を入れてしまったり、同僚達との繋がりに細やかな有り難さを感じることが、テレワークをして初めて意識できた。飲み会の類に参加することは滅多にない。(おそらく去年は全て欠席)そんな人間嫌いを地で行く僕が「今日は会社行かなきゃ」という日、これまでとは違った感覚が身をよぎる。20200414.jpg
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個性が個性を誘発する共鳴

01 25, 2020
妻がブックカフェをしており、そこで修子さんの作品を展示してもらっている。とはいえ7人も入れば満員になってしまう小さな店なので、規模としても小さい。しかし、店内はかなり遊びがあるランダムな空間なので「猫」の存在がとてもマッチしている。特に、描かれた猫のなめらかなアウトラインに沿ってカットされた厚みのある平面作品は、ずっと前からそこに居たかのような馴染み具合で、違和感が全くない。
初回の打ち合わせで、作品をテスト的に設置した時のことを僕は忘れないと思う。作品と店が、急に息づいたような気がした。「空気が一変する」とはこういうことを指すのだろう。個性が個性を誘発する共鳴が、そこにあった。「猫」の表情によって、場所の力がどんどん引き出されるような気がした。
実は開店当初、僕の暗い写真作品を強引に展示したことがある。しかし1日で「外してもいいかな?」と言われ撤去された。妻は正しかった。確かに僕の作品に、こういうパワーはない。そして展示が始まり、お客も通常とは違うレベルで出入りするようになった。
以下は、2015年に書いたブログ。あの頃、まさか自分が修子さんに展示を依頼するとは思わなかった。引き続き、修子さんの活動に感謝せねばならない。
http://shinichitoda.blog117.fc2.com/blog-entry-583.html
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他者の可能性

11 27, 2019
人をどこまで信用するか。ここに挑んだ「BOOK ROAD」という小さな古本屋がある。販売されている本は一番安くて300円、高いと1000円。品揃えは小説、新書、ビジネス、哲学、歴史、美術、デザイン、写真、エッセイ等幅広い。こう書くと一般的な古本屋かもしれないが、この店が他の本屋と決定的に違うところがある。それは無人であるということ、つまり店員がいない。では、どうやって本を購入するのか。店の隅に300円用と500円用のガチャガチャがある。そこで300円の本を買う場合、300円用のガチャガチャをやると、プラスチックボールに入ったビニール袋が出てくる。この袋に本を入れて購入終了。800円の本が欲しい場合は、それに500円のガチャガチャをプラスする、そんなシステムだ。自分の蔵書を古本として売り始めた店主は、会社に通勤するため平日は店に立てない。そこでこの手法を考えたらしい。「それで大丈夫なのか?」と思うが、問題ないようだ。逆に、知らぬ間に本が増えていたり、勝手にCD売場が作られたりするようで、意外な恩恵があるとのこと。場所は、三鷹駅から徒歩15分ほどの住宅街の一角。営業時間は24時間ということで、実際に行ってみた。ネットに出ていた写真と比較すると、置かれている本はだいぶ少ない。そして想像以上に店が小さかった。友達の部屋にある本棚を眺める感覚に近い。しかし、どんな本があるのかを見て、その一冊を手に取り拾い読みし、別の本を手に取り目次を確認し、みたいなことをしていると、次第にその狭さが気にならなくなり、逆に「本屋にたったひとり」という嬉しさがこみ上げ顔が綻ぶ。ビジュアルは貧相だが、誰もいない場所で、少ないとはいえ200冊程度の本全てが読み放題、店員もいないため誰の目も気にする必要がない。これは味わったことのない快感だった。本というのは著者渾身の思いが凝縮された創作物で、それらに無心に触れ続けていると疚しい気持ちが薄れてくる。もうちょい人生頑張ってみるかと思ったりもする。ガチャガチャのキャラが描かれ「念のためのカメラが回っています」というぐだぐだの書き置きがあるが、見たところ何処にもカメラらしきものはない。通常、店には管理者がいる。店に訪れる人は、その管理下で商品を購入するわけだが「そんなもんいらなくね」という逸脱がここにある。勿論、店主はガチャガチャのお金を回収したり、古本を整理したりという管理をするわけだが、それらを最小限に留め、あとは客に放任したわけだ。この潔さ。しかも、野放図に音楽エリアが増設されて本が増えるという奇跡のような場所になっている。現在、店主は会社を辞め、吉祥寺に「BOOK MANSION」という本棚を分割して貸し出す新たな本屋を始めている。本屋で本を買う人ではなく、本屋になって本を売りたい人を客にするという逆説。棚を77分割し1スペース1ヶ月3850円で貸し出し、売れた本のフィーは1冊ごとに100円。加えて、借りた人が店番も順番で行うらしい。要は1つの店の中に77種の本屋が集合していることになる。実際「問いが見つかる本棚」だの「戦国棚」だの各スペースの個性が様々にあり、本が持つ世界の広さを堪能できる。あまり関係ないが、500円以上本を買うと綿飴も作れる。共通して思うことは、やはり放任の心意気か。間違いなくこれまでの常識以上に「他者の可能性」を信じているからこそできるビジネスなのだろう。僕はあまり人を信用できない。裏切られたことも少なくない。どちらかといえば疑り深い人間だ。だからこそ、このような店主の所業を知ると、自分の概念を壊される。しかし、その亀裂を兆しに自分も脱皮したいとも思う。
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見えてはいるが見てはいないような状態

10 13, 2019
僕の視力は0.02。裸眼での生活は不可能だ。眼鏡がなければもう何も見えない。ピントが合うのはせいぜい20cm。以前、裸眼で視力を計られた際、僕が言った台詞は「どこを指してますか?」だった。しかしそんな僕でも風呂は裸眼で入る。眼鏡と風呂は合わない。さて先日、銭湯で眼鏡を持っていかれた。他人の眼鏡なんて役に立つわけないから、すぐに返却されるだろうと思っていたが、あまかった。僕が時々通っている銭湯は、サウナと檜風呂を楽しもうと思う場合、別料金を支払う。その際、靴入れの鍵と交換で黄色いバスタオルが入った透明バッグを渡される。更にそのバックには番号が付いており、それが誰の物かを判別する印となる。そしてこの日に限って、僕は眼鏡をかけたまま中に入ってしまい、仕方なく透明バッグに眼鏡を入れて長風呂を楽しんでいた。そしてあがる際、自分のバッグがなくなっていることに気づいた。番台のおばあちゃんに事情を説明するも、なかなか要領を得ない。そもそもバッグを間違っている時点で靴箱の鍵と合わないから、間違えた本人がバッグを戻して欲しいところだが、その本人が常連のおじいちゃんだったようで、番台のおばあちゃんはそのまま靴箱の鍵を渡してしまったらしい。バッグの中に眼鏡はなく、おそらく常連のおじいちゃんが持ち帰ったのだろう。番台のおばあちゃんは毎週来るから聞いてみると言ってくれたが、望みが叶うとは思えない。あの日、遠近感も輪郭も曖昧となった風呂のような世界を漂いながら僕は帰宅した。やはり眼鏡はロッカーに戻しておくべきだった。当然ながらその後の連絡はない。まあ安く作った眼鏡だったし、諦めて新たに作ることにした。しかし今度はその新しい眼鏡が合わず、暫くしてから鼻の付け根が痛くて仕方がない。パッドみたいなものがあると知り、それを眼鏡の鼻当て部分に装着して暫くごまかしたが、やはり合わない。そしてある時、昔の眼鏡をかけてみた。これだと視力がせいぜい0.3程度しかない。しかしこれが意外に新発見だった。ようやく言いたいことが言えた。僕の目は明らかに老眼も入っており、ピントを合わせる機能が低下しているため、1.0の眼鏡だと本もスマホも見えてはいるが見てはいないような状態となるため、読むという行為の際は、眼鏡を外して対象を目に近づけて裸眼で読むようにしていた。その方が「しっかり読んでいる」という確かな感触が得られたからだ。そして今回の発見は0.3の眼鏡だと眼鏡を外さなくても、本やスマホの文字を「しっかり読んでいる」感触を得られたことだった。確かに周囲の光景はぼんやりしてしまうし、人の顔もよくわからなくなる。でも思えば、今更他者の顔を明確に見る必要性などないし、通勤時に広がる周囲の不機嫌な顔など逆に見えない方がストレスがない。しかもその分眼鏡が軽いしレンズも薄い。これはいい。1.0の眼鏡は短時間であれば大丈夫なので、映画鑑賞用にでもすればいい。発見であった。今度眼鏡を作る時は「視力を0.3程度に合わせたレンズにしたいのですが」ということになる。さて、こういうオーダーを店員は聞いてくれるのだろうか。
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おそらくその「なんとなく」

09 29, 2019
あたり前のことだが、他者の判断に自分は関与できない。仕方ないことだし、ここを耐えねば生きてはいけない。それにしても、倍率にはどの程度の信憑性があるのだろう。高い倍率を制して選出されることは、その品質を担保する証明になるのかもしれないが、努力は倍率を凌駕できるのだろうか。こんなことを考えるのは無意味だし、そもそもコンペは、選別された何かのために存在するのであって、それ以外ではない。しかし、そこまで残ったならば最後まで残っていたかった、という結果が時々自分を翻弄する。さっさと忘れればいいことを反芻し、もどかしい思いを引き摺ったまま未練を断ち切れない時もある。今回1259篇のうち三次予選の12篇まで残りつつ破れたわけだが、それはあと一歩届かなかったと考えるべきなのか、そこには決定的な断絶があって、そこから先こそが勝負だったのか、審査される側からは決して見えないエリアがそこにはある。ただそれが、社会的な信用のフィルターなのだ。権威者の決定が伴うとはこういうことを意味する。しかし自分が審査する側に立つ時、選抜するしないの判断に明確な差異がないことも思う。なんとなくこれ、という判断を下す自分もいるわけだ。ただ、おそらくその「なんとなく」が重要なのだ。「なんとなく」気持ちを寄せてしまう要素があるかどうか。残る作品と残らない作品の差異、そのあわいをいつも彷徨っている。
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誰かの判断の痕跡

05 01, 2019
自転車が気持ち良い季節になり、かつ晴れ間が続き、暫くバスに乗っていなかったのだが、先日から雨模様となり、久しぶりに駅までバスに乗った。そして、記憶の光景が随分古いものであったことを知る。セブンイレブンが閉店し、歯医者だった建物がまるごと消滅していた。公認会計士の事務所が空き物件となっていたことまでは覚えていたが、そこには足ツボマッサージが入っていた。其処此処でも新しい季節が始まっていたのだなあと思う。それぞれの決心があって、何かが終わり何かが始まるのだ。そこに関わる方々の思いのほどを僕は知る由もないが、記憶と違うその場所を見る時、そこにいた誰かの判断の痕跡を知ることにはなる。この歳になると、変化よりも安定に心地良さを感じるが、否が応でも変わる時は変わる。気づけば平成が終わり、令和となった。
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事実を知らずに都合よく捻じ曲げていること

04 11, 2019
証明写真というのは、どうしてああも酷い顔になってしまうのだろう。先日、社員証の更新で顔写真を撮ることになった。もちろん僕はいい年をしたおっさんなので、自分の顔に対して既に諦めているし大したこだわりもないため、何の抵抗もなく自動で撮影してくれる社内に設置されたボックスに入り、正面に写る自分の顔を見て椅子の高さ等を調節し、己の顔を機械に撮影してもらった。で「こんな感じで撮れましたよ、いいですか」という画像が出るのだが、これが本当に酷い顔であった。確かに素材に限界があるし、無理を言うつもりもないが、予想を遥かに下回る「萎びた小者」が呆然とした顔で写っており、数秒落ち込んでしまった。チャンスは2回となっており、正直自分に2回目など必要ないと思っていたが、2枚目を撮ることにした。今度は多少なりともまともな人間に見えるように、シャツのボタンを全て留め、胸を張り顎を引いて気合いを入れて、シャッターを切った。「はい、こんな感じです」と画像が映し出される。今度は「周囲に怯えた話にならない男」がそこにいた。全然駄目だと思った、これならまだ1枚目の方がマシに思える。そして「もう、どうでもいいや」と言う気分になった。自分の顔というのは自分で見えないため、知らぬうちに何かを修正してしまうのかもしれない。こんな中年真っ盛りのおっさんにも、そんな意識があったのかと思うと、事実を知らずに都合よく捻じ曲げていることが他にもあるのだろう、もう少し謙虚になるべきかもしれない、そんなことを思った。
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完全な複製物ではなく、少しだけ何かが変わった複製物

02 24, 2019
ソフィ・カルの「限局性激痛」を観た。このタイトルはいつも忘れてしまうが、縫い込まれた文字の色が支持体の布に溶け込んでいく様相は忘れたことがなかった。「時のかたち」の著者ジョージ・クブラーが「模倣の過程には対照的なふたつの動きがある。それらは、質のよさへ向かう動きと質のよさから遠ざかる動きとして説明できる」と書いている。時の経過によって何かが変化するシーンをテーマにした作品は多々あるが、この「限局性激痛」の場合は、そのどちらでもなく「傷が癒えていく動き」になるのだろう。しかし、観ている間何度もこの言葉が脳裏をよぎった。「それぞれの瞬間はその直後に起こった瞬間のほぼ正確な複製物である」これもジョージ・クブラーの言葉だが、この「ほぼ」が重要で、言いかえればそれぞれの瞬間は「完全な複製物ではなく、少しだけ何かが変わった複製物」なのだ。変化がどこに向かうのか、その微妙な差異を見極めないと痛い目にあうのだろう。質の向上なのか劣化なのか、傷が癒えているのか悪化しているのか。気づいたら遅かったとはなりたくないものだ。
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無意味な断片イメージの連続波状攻撃

01 31, 2019
約10年程、家族全員インフルエンザとは無縁だったので、インフル無視の生活を継続していたら、己れの愚かさを知れとばかりに自分自身が感染してしまい、高熱が持続する苦しみを初めて味わった。背中の痛みを過剰に意識した翌日体調の変化を無視できず、病院で体温を測ると38.8度、鼻に棒を突っ込まれ感染を告げられ、薬局で薬を吸い込むと、それ以上やることはないらしい。悪寒は酷かったが、まだまだ冷静だったし仕事の引継ぎを遠隔で済ますと、後はこれから一週間、僕は何もせずに寝てていいのか?ということになるのだった。予想外の自由時間到来、とばかりに読みかけの本を何冊か抱えて布団に潜り込み、さあ楽しもうと思ったのだが、なかなか内容が入ってこない上に寒気が悪化し、頭痛のくせに全身が圧迫される。仕方ない読書を諦め、睡眠に集中するかと思い目を閉じるのだが、とてもでないが寝ていられない。どうでもいい断片的なイメージが連続的に脳内を掻き乱す、顔を顰め何度も寝返りを繰り返すが安定は得られない。己れの呑気さと高熱の苦しみを実感し、愚か者らしく何時間も悶え続けるしかないのだった。状況が変わったのは、妻が作ってくれたお粥を食べてからだ。ひとくちの有り難みを実感した。お腹が満たされ、安定が得られそうな気配と布団に包まれながら、再度寝たのだが、気がつくと今度は汗が止まらない。下着が濡れる感じは初めてだった。実際かなり濡れていたので着替えると、高熱感が随分弱まっている。布団に横たわる。目を閉じても無意味な断片イメージの連続波状攻撃も弱まっている。ああ、ようやく寝れるのだと思う瞬間だった。
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任田進一

Author:任田進一
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