誰かの判断の痕跡

05 01, 2019
自転車が気持ち良い季節になり、かつ晴れ間が続き、暫くバスに乗っていなかったのだが、先日から雨模様となり、久しぶりに駅までバスに乗った。そして、記憶の光景が随分古いものであったことを知る。セブンイレブンが閉店し、歯医者だった建物がまるごと消滅していた。公認会計士の事務所が空き物件となっていたことまでは覚えていたが、そこには足ツボマッサージが入っていた。其処此処でも新しい季節が始まっていたのだなあと思う。それぞれの決心があって、何かが終わり何かが始まるのだ。そこに関わる方々の思いのほどを僕は知る由もないが、記憶と違うその場所を見る時、そこにいた誰かの判断の痕跡を知ることにはなる。この歳になると、変化よりも安定に心地良さを感じるが、否が応でも変わる時は変わる。気づけば平成が終わり、令和となった。
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事実を知らずに都合よく捻じ曲げていること

04 11, 2019
証明写真というのは、どうしてああも酷い顔になってしまうのだろう。先日、社員証の更新で顔写真を撮ることになった。もちろん僕はいい年をしたおっさんなので、自分の顔に対して既に諦めているし大したこだわりもないため、何の抵抗もなく自動で撮影してくれる社内に設置されたボックスに入り、正面に写る自分の顔を見て椅子の高さ等を調節し、己の顔を機械に撮影してもらった。で「こんな感じで撮れましたよ、いいですか」という画像が出るのだが、これが本当に酷い顔であった。確かに素材に限界があるし、無理を言うつもりもないが、予想を遥かに下回る「萎びた小者」が呆然とした顔で写っており、数秒落ち込んでしまった。チャンスは2回となっており、正直自分に2回目など必要ないと思っていたが、2枚目を撮ることにした。今度は多少なりともまともな人間に見えるように、シャツのボタンを全て留め、胸を張り顎を引いて気合いを入れて、シャッターを切った。「はい、こんな感じです」と画像が映し出される。今度は「周囲に怯えた話にならない男」がそこにいた。全然駄目だと思った、これならまだ1枚目の方がマシに思える。そして「もう、どうでもいいや」と言う気分になった。自分の顔というのは自分で見えないため、知らぬうちに何かを修正してしまうのかもしれない。こんな中年真っ盛りのおっさんにも、そんな意識があったのかと思うと、事実を知らずに都合よく捻じ曲げていることが他にもあるのだろう、もう少し謙虚になるべきかもしれない、そんなことを思った。
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完全な複製物ではなく、少しだけ何かが変わった複製物

02 24, 2019
ソフィ・カルの「限局性激痛」を観た。このタイトルはいつも忘れてしまうが、縫い込まれた文字の色が支持体の布に溶け込んでいく様相は忘れたことがなかった。「時のかたち」の著者ジョージ・クブラーが「模倣の過程には対照的なふたつの動きがある。それらは、質のよさへ向かう動きと質のよさから遠ざかる動きとして説明できる」と書いている。時の経過によって何かが変化するシーンをテーマにした作品は多々あるが、この「限局性激痛」の場合は、そのどちらでもなく「傷が癒えていく動き」になるのだろう。しかし、観ている間何度もこの言葉が脳裏をよぎった。「それぞれの瞬間はその直後に起こった瞬間のほぼ正確な複製物である」これもジョージ・クブラーの言葉だが、この「ほぼ」が重要で、言いかえればそれぞれの瞬間は「完全な複製物ではなく、少しだけ何かが変わった複製物」なのだ。変化がどこに向かうのか、その微妙な差異を見極めないと痛い目にあうのだろう。質の向上なのか劣化なのか、傷が癒えているのか悪化しているのか。気づいたら遅かったとはなりたくないものだ。
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無意味な断片イメージの連続波状攻撃

01 31, 2019
約10年程、家族全員インフルエンザとは無縁だったので、インフル無視の生活を継続していたら、己れの愚かさを知れとばかりに自分自身が感染してしまい、高熱が持続する苦しみを初めて味わった。背中の痛みを過剰に意識した翌日体調の変化を無視できず、病院で体温を測ると38.8度、鼻に棒を突っ込まれ感染を告げられ、薬局で薬を吸い込むと、それ以上やることはないらしい。悪寒は酷かったが、まだまだ冷静だったし仕事の引継ぎを遠隔で済ますと、後はこれから一週間、僕は何もせずに寝てていいのか?ということになるのだった。予想外の自由時間到来、とばかりに読みかけの本を何冊か抱えて布団に潜り込み、さあ楽しもうと思ったのだが、なかなか内容が入ってこない上に寒気が悪化し、頭痛のくせに全身が圧迫される。仕方ない読書を諦め、睡眠に集中するかと思い目を閉じるのだが、とてもでないが寝ていられない。どうでもいい断片的なイメージが連続的に脳内を掻き乱す、顔を顰め何度も寝返りを繰り返すが安定は得られない。己れの呑気さと高熱の苦しみを実感し、愚か者らしく何時間も悶え続けるしかないのだった。状況が変わったのは、妻が作ってくれたお粥を食べてからだ。ひとくちの有り難みを実感した。お腹が満たされ、安定が得られそうな気配と布団に包まれながら、再度寝たのだが、気がつくと今度は汗が止まらない。下着が濡れる感じは初めてだった。実際かなり濡れていたので着替えると、高熱感が随分弱まっている。布団に横たわる。目を閉じても無意味な断片イメージの連続波状攻撃も弱まっている。ああ、ようやく寝れるのだと思う瞬間だった。
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適度に動き続ける行為

01 12, 2019
だいたい二週間に一度、漠然とした疎外感に取り巻かれる。定期的に来る症状なので「ああ、またその時期がきたな」と客観的には判断できるものの、そのやるせなさが消えるわけではない。対処法としては、なるべく些細な(ルーティンワークを続けるという類の)行為に集中するようにしている。いわば自分を理性だけで強引に動かす。暫くは、かなりの違和感を覚えるものだが、こういう行動を無理くり続けることで、少しづつしかし確実にやるせなさや漠然とした疎外感は薄まってくる。行動の強さを思う時だ。身体と頭が動くことで、何かが正常なバランスに戻るんだと思う。そして、静止状態の不自然さが招く余計な妄想の怖さを思う。適度に動き続ける行為が含む意味の多様さを思う。
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可変と不変の絡み合い

01 01, 2019
テレビが壊れて以来、家にはテレビがなかった。無ければないでなんとかなるもので、そのままテレビを見る習慣自体が消えてしまい、少なくともここ2年ぐらいはテレビを見ていなかった。今回ある事情で年末にテレビを買った。時期が時期ではあったが、あっさり購入できた。随分と軽くなっていた。以前家にあったテレビよりも大きいのに、重さは半分以下ぐらいの印象で、時代の経過を感じた。ただ、受験生がいることもあり、設置はしたもののテレビをつけることはなかった。そして昨日、大晦日ぐらいはいいかと思い、テレビを見たのだが、ニュースや天気予報を見るだけで新鮮だった。ああ、説明してくれるんだと思った。その代わり、こちらが理解できない状態でも次のニュースは容赦なく始まってしまうのだった。当たり前だが、そんなことに一々感心していた。晴れや曇りのマークはあんなに動いていただろうか、番組の進行や画面の切り替えは、こんなに慌ただしかっただろうか、紅白も見たが、知らない人だらけである一方で「希望の轍」を聞くことになるとは思わなかった。言い尽くされてはいるが、全くもって変わるものと変わらないものが同時に共存していた。そして更に、その変わった中でも変わらない部分があるし、変わっていない中にも変わった部分があるのだろう。可変と不変の絡み合いをテレビを見ながら感じた。
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手をかければかけるほど

11 27, 2018
事情があり木材に様々な塗料を塗っている。そんな単純作業が実に気持ち良い。塗れば塗るほど作業が進み、丁寧に重ね塗りすれば表面はより美しく仕上がる。手をかければかけるほど時間をかければかけるほど結果が充実する作業だ。おそらく多くの仕事において、作業量と結果は必ずしも比例しない。だからといって効率的な時短と結果の最大化を合わせて追求するのも如何なものか。このような分かりやすい着地点が約束されていると、実に心穏やかに作業が進められる。手間暇かけることの重要さを思い出す。良いものはそう簡単にはできない、そんな真っ当なことに気づく。
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時間概念が薄らぐ

11 02, 2018
被写体を見ながら、僕は「今この時」と一体化するためにファインダーを覗いているんじゃないか、と思える時がある。というのは、被写体と自分だけの関係のみに集中する時、日常や過去や未来という時間概念が薄らぐことに、ふと気づくからだ。撮影している時、僕は明らかに何も背負っておらず、対象と一体化した実にシンプルな状態になる。言わば撮影を続ける限り「今この時」は終わらずに、僕は過去にも未来にも属していない状態になる。思うに、それはとても伸びやかな時間だ。通常そういう感覚になることはあまりない。今という時間は、過去と未来に挟まれており、そのどちらかの影響を受けざるを得ない。家族の今後なり、仕事の予定なり、過去に自分自身が行ってきた結果から自分が解放されることはない。しかし、写真を撮る「今この時」に関しては、それが消えている。過去も未来もない今だけだ。そう考えてみると、没頭状態とは時間との乖離を意味するのだろうか。つまり「今この時」を味わっている状態イコール、未来の不安なり過去の縛りからの解放、となるのかもしれない。「今を生きる」この使い古されたワードの意味が朧に見えそうな気がしている。
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気がつけば全く原型を留めていない

10 22, 2018
見直せば見直すほどに修正すべき点が見つかり、気がつけば全く原型を留めていない状態になってしまうことがある。内容を作り上げることと、それを人に伝えることの違いを思う。そして、伝えることを明確にすればするほど表層はシンプルになる、しかし逆に深層へのイメージが膨らみ、内容自体が深掘りされていることにも気づく。分かってもらうための配慮が隅々まで行き渡っているかどうかを突き詰めることで、逆に内容自体に磨きがかかるのだろう。「理解は快感を伴う」らしい。ただ思うことは、理解された内容とは別に、制作者が理解してもらうために考えたであろう工夫の方が、快感を誘うのかもしれないということだ。
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自分の濃度に戻っていく

10 08, 2018
国際展示場にあるビッグサイトで撮影をする必要があり、数日通ったのだが、あの巨大空間の中で人波に揉まれ続けながら、大量の情報を摂取していると、ある時点から自分がよくわからない状態になり、感じる力が極端に衰えてしまう。更に妙な不安感に襲われ始め、加速度を増して自分自身が稀薄になっていく。ビッグサイト酔いと名付けている。今回もやはりビッグサイト酔いになった。正直、あまり行きたいと思わない場所のひとつと言ってもいい。ただあそこから帰る際、東京駅行きのバスがあるのだが、それだけは良いのだった。大変時間がかかるため、とてもお勧めできるものではないが、ある意味、今の東京を眺める事はできる。茫漠としながら、バスに長時間揺られていると、希薄だった自分が、徐々に自分の濃度に戻っていく。ぼんやりする時間の貴重さを思う。
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プロフィール

任田進一

Author:任田進一
http://www.shinichitoda.com

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